作用と持続14

いまも、ひとりで、安全な部屋の中にいる。
外では雨が降っている。部屋には窓が3つあるが、閉め切っているせいで音はしない。わずかにパソコンの駆動音がどこからか微かに響いている。
外では風が吹いている。部屋のなかは安全のように見えるが、気づくと、ここは安全かどうかわからない。机の上においてある水はただの水だが、いまやそれが単なる水なのか、何か無味無臭の成分がふくまれているのか、まったくわからない。
囲われたこの部屋は、いつのまにか、今はまったく安全ではなかった。



外では樹が揺れている。
台風が近い。



昨日書いたことに、若干の補足。非常にどうでもいいが、感想として、自分がまだワカゾーであることに気づかされる。生年からすればオッサン扱いされても何の問題もないかもしれないのだが、しかし一方で、まだあまりにジャリであることを痛感する。かといって、したり顔で何かをいうことに憧れているわけでもない。
だからといって、どうしたわけでもないが。


ひとつだけ補足。読み直してみたら、「関係性」の部分と、「問い」の部分で、論理がずれている、もしくは飛躍していることに気づいた。ただ、それについてあまり踏み込むと、なんというか変な本質論のようになってしまいそうなので、躊躇する。
そのうえで、少しだけノートを進めてみよう。



ものすごく単純にいうと、つまり、いま起きていることの一つは、ひょっとすると関係性の破壊なのかもしれないと思う。正確な知識に基づいているわけでもないし、分析をするようなヒトゴト感覚でいいのかという問題もあるが、もしある場所が「血を流している」「傷が開いている」というならば、その血や傷口は、関係性なのではないか。
人と人、モノと人、記憶と人、そうした無数の関係性が打撃を受けている。ホーシャノーによって。外圧によって。社会の崩壊によって。傷が開いている。
そう捉えてみる。


では、なぜこのようなことを言うのか。それは単純に、すくなくとも目にした範囲で、多くの人は同地のセージやケイザイばかりを口にするようにみえるからだ。たしかに、そこはケイザイ的に打撃を受けたように理解する。また立て直すのにセージ的な機能が必要であることも理解している。
しかし、傷口はそれだけなのか。社会がダメージを受けると言うとき、それは一体なんなのか。それは、ひょっとすると関係性なのではないか。つまり、社会から人が離れたり、家族が引き離されたり、友人と別れたり、過去の記憶が暗転したり、そうした関係性が打撃を受けているのではないか。
つまりそれは、文化がダメージを受けているのではないか。なぜなら、文化はそうした関係性によって支えられ、かつ、関係性は文化をなしているのだから。


ただし、同じことを繰り返すが、このような形で問題を把握したとき、しばしば、ここから文化や関係性の「保存」を強調しがちになる気がする。文化がダメージを受けている、あるいはそれを担って/支えている人間関係が引き剥がされているとしたとき、それを保存しなければならない、と言うような。
それについては、個人的かつ主観的な見解としては、保存しなくても良いと思っている。もしホーシャノーから逃れることができるのならば、その場所から全ての人が退避できるならば、関係性が失われようとどうなろうと、それは構わない、と。
それによって関係性もろとも文化がなくなっても、実利的に機能するなら、ある場所から人がいなくなってもかまわない。少なくとも個人的にはそう思う。




このあたりが、おおきな輪郭。ここから、いくつかの問題に分岐するが、これ以上ふみ込むのは、とりあえずやめておく。
ただ、もしある社会がダメージを受け、それが一つには関係性において見られるならば、もうそれに対しての動きはすでにあるようにも見える。そこでは、いくつもの動きがあるようでもある。あるものは、ガッコウの代わりに向い、あるものは祭りに向かい、そうしたいくつもの動きがあるように見える。
ひょっとすれば、それらの動きは、関係性を修復するだけでなくて、生きた関係性をつくり出そうとしているのではないかと思う。関係性は傷ついた。もう、もとには戻らないかもしれない。まだ血を流しているかもしれない。
けれど、かならずしも全てを元に戻す必要は、ないのかもしれない。それよりは、そこにおいて傷ついた関係性を生きたものにすること、生きた関係性をつくり出すことの方が、おそらく大事なのかもしれない。
その方法は、おそらく一つではない気がする。たぶん、無数に存在する。そしてそれは、もうすでに始められているような気もするし、これから始められるような気もする。




・・・とりあえずこんなところ。すこし抽象的すぎるだろうか。たぶん、いくつかの概念装置を使えば、もっと説得性のあるコトバが書けるのかもしれないが、さしあたりそれには躊躇する。これも繰り返しだが、「文化の担い手=複数の関係性」のようなところで概念をつくると、精緻にはなるのだろうが、その分、想像力や創造性にそっぽを向く。個人的には、創造性は、どちらかというと関係性を無視した突発的な問題としてアプローチしないと把握できない気がしているので。もちろん個人的に、だが。


ただ、こうしたかたちで問題を立てたとすると、このときの大きな問いかけを一言で言えば、「文化とは何か」という問いに圧縮されるように思う。その問いについての一つのアプローチが関係性であり、あるいは他にも、創造性や、伝播や、色々なアプローチがあり得るだろう。
けれど大きくいえば、文化とは何か、どのようなものであり、どのようものがありうるのか、という問いに圧縮される。やや大きいが、そうした問いだ。


つけくわえると、こんな問いは当たり前と思うかもしれないが、どうもそうでもない気もする。
というのは、それは抽象的ではなくもっと具体的な問題である。つまり主観的にだが、どうも90年代以降、こういう問いが個人的に欠けていたような気がするのだ。
ひょっとして、文化と言うのは誰かに与えられるものだと思っていたかもしれない。たとえば産業とか、施設とか、ケーザイとか、そういうなかで自由に消費できるものと思い込んでいたかもしれない。あるいは、そもそも「文化は実利的でないのだ」ということで、何かを語った気になっていたのかもしれない。もちろん、実利的ではないだろう。少なくともそういう側面はあるだろう。
けれど、ひるがえると、そう簡単ではないのではないか。もし文化が消費なら、それは産業の領域であって、文化は存在しなくて良いことになる。文化が非実用的なら、そもそも無くても良いはずである。
けれど、文化は存在している。しかも、あくまで主観的だが、多くの人が、度合いはちがっても、それに支えられているのではないだろうか。どれほどシゴト人間でも、シゴトが終わったあと、どこかの飲み屋で一杯やったりしないだろうか。それは、文化ではないのか?


裏返せば、だから、こうした問いを、ひょっとしたら回避してきたかもしれないのだ。すくなくとも個人的には、そんな問いは必要なかった。文化とは何か、それが失われるとはどういうことか、それを修繕するとはどういうことか、そんなことを問うことはこれまでなかった。
だから、これは抽象論ではなく、具体論なのだ。



けれど、これについて真正面から考えても、有効でない気も一方でする。たぶんそれは、文化の「本質」とは何か、というような本質論になってしまうだろう。けれど、これも個人的な理解だが、文化において確固たる本質などそもそもない気がする。せいぜいが得体のしれない謎の部品とか模像が乱れ飛んでいるくらいで、どこにも本質なんてない。すくなくともそう思う。


だから、それについて、答えを出すのはやめておく。ただ、問いだけはキープする。あるいは、問いをもう少し整理することはあるかもしれない。けれど明確な答えは出さない。もし出すことがあったら、誰が読んでいるのか知らないが、この文章を叩いてもらって構わない。




とりあえずこんなところ。まだ混乱しているかもしれないが、それは許してほしい。あと念のためだが、これはあくまで個人的な問いであって、誰かに強要するものではない。
というより、むしろこれ以外の、もっと沢山の問いがあってもいいように思う。誰かが、「議論するより、ひとりひとりの問いを正しく立てることが重要だ」といっていたが、いまはそのように思う。





こうして、つまりは、また部屋に戻ってくる。外は雨が止んでいる。2つある窓の外は、夜の風景になっている。
ドアの向こうから、人の声がする。何を言っているのかは分からない。台風が近付いている。


外がどうなっているのか、そこが安全なのかは、いまはまだ分からない。




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