作用と持続16

いまも、ひとりで、安全な場所にいる。目の前には白い壁があり、背後には本棚がある。窓の外は暗い・・・って、これはパクリであると同時に、事実でもある。


では、ここは安全なのだろうか。あらためて問うてみてもいい。



色々おもうことはあるが、とりあえず日曜にヤソーの色色企画に行く。感想・・・ムリ。わかったのは、やたらとハイレベルなものが立て続けに行われ、頭をガンガン叩かれまくったような感じだったことだけである。
別に無理にホメるわけでもなく、主観的にすぎないが、ハンパない・・・というか、一般に言われるのとは逆の意味で、値段と中身が釣り合ってない気さえした。


だから見終わったあとは、頭の中には何も残っていない。ただ何か激烈なものを観て、聞いただけという、うっすらした感触しかない。それが色色というなら、そうなのかもしれないと思う。
・・・とか思わずも思ってしまうほどにスゴかった。少しナメてた。反省。



なので、固有名詞について記すのはいささか不可能である。あえていえば、モエ&ゴーストはヤバかった。ものすごい人が出現したとしか思えない。こういう言い方は良くないかもしれないが、観ていない人は、いますぐ要チェックだ・・・マジですごい。

他にも未亡人とかあれとかこれとか、全部あがってしまうので、とりあえずそれは削除。



あとつけ加えると、とりあえず目当てだった朗読だろうか・・・。
これまたフツーでなかった。いや、ある意味でフツーだったのだが、予想と全然違った。なんか声と伴奏でやるものだと思い込んでいたのだが、実際は音楽は皆無で、ただ向き合ったふたりが、テキストを読む(だけ)である。ただ、それはフツーの朗読ではなかった・・・


とりあえず主観的に描写してみると、なんとなく想像する朗読と言うのは、コトバを加算して変化させたりするものだと思う。ある単語を(いささか感情的に)大声で言ったり、身ぶりを伴ったり、別のテキストを重ねて読んでみたり。書かれてあるコトバを発声する際に、そういう効果をくわえていく。それに、音楽をつけ加えるというのを含めても良い。
そういうものをとりあえず「足し算」と呼んでみると、ここの朗読は、そうじゃなかった。どちらかというと「割算」みたいである。そこで割られているのは、まとまったテキストそれ自体である。つまり、個々の単語を強調して文章を破壊していくよりは、むしろ一つ一つのコトバはかなり明瞭に聞こえるのだが、テキストの全体としてギリギリ成立しているような感じにしていく。

いいかえると、コトバを読み上げていくとき、一つ一つの「単語」を変形させるのではなくて、辛うじてではあるが、まとまった文章の全体を浮かび上がらせていく感じ。もちろん実際の発声では、単語は歪められ、息のなかで囁かれ、口籠られたりしてくのだが、にもかかわらずギリギリでテキストとして存在しているかんじ。
というか、テキストはもともと「織物」と言う意味なのだから、そうした形があってもいいのかもしれない。つけくわえると、唯一、おおきいのは、生の声ではなくて、マイクを通していたことか。そのマイクを通した声で、わずかだが流れが出来ていくような。


だから、二人の声がさまざまに変化しながら交錯するなかで、ほとんど単語しか聞きとれないのだが、そこに文章が成立し、かろうじて意味が運ばれ、繋がっていくようだった。テキストが、もじどおりにテキスト=織物としての姿をみせていたというべきか。
ただそのようなテキストの姿は、読まれることによって出現していたようでもある。うらをかえせば、そこでの朗読をたとえば録音→文字起こししても、もとのテキストと何ら変わりのない文章ができるはずだ。だって、意味の通る文章がそのまま読まれていたのだから。ただ、朗読されたコトバとコトバは、書かれたそれとは、少しくちがう形をしているようだった。

そうした、声によって辛うじて綴られていくテキストに、歪みきった映像が重なっていて、つまりは何だか少し気が遠くなったような気分をあじわう。



・・・こんなに書いているが、ちなみに見終わった瞬間はかなり「?」だった。はたして、何が行われたのか、意味がわからないみたいな。しかももの凄い体力が必要で、演る側だけでなく(前衛家とか、途中で倒れるのではないかとおもった)観る側も、ものすごい集中力を要する。
こりゃなんだ一体、とか思った。
ので、書いてみた。



ちなみに、終わったあとにオータニさんが「次の予定は14、15・・・」といった瞬間に、司会の人に修正されて絶句していたが、その違いは、なんだかわからないけど結構、個人的には大きい・・・まあいいや。



なんか他にも、はやく会場に着き過ぎたので散歩ついでに入ったアサクサバシのべローチェの思い出とか、色々とどうでもいい話題があるのだが、それはカット。
とにかく、派手にグラスが吹き飛ばされて、アイスコーヒーが2階に飛び散っていたことだけは、間違いない。


思うにたぶん、あそこでは毎日、アイスコーヒーが飛び散っている。常連のオジサンがケーバ新聞を読みながら振り回す手によって、グラスが弾き飛ばされているにちがいない。
だからこの日、はっきりと覚えているのは、どこもかしこも、今はすべて安全ではないらしいことだけである。



**