続きつづけているのこり

どうでもいいが、なんだか今日も暑い。たしか先月末にオーサキに行ったときは、一応ウワギを持っていたはずである。けれど今は持っていない。おかしいような気もするが、まあ、これがたぶん残暑というものかもしれぬ。ちがうかもしれぬ。どっちでもよい。

あと、ついさっき、どうやらカクリョーがジニンしたらしい・・・まあ、それはそれでいいのだが、ちょっと前から思うのは、ヨ党は内実が変わったが、実はヤ党が全く変わっていないことである。そしてこれこそ前から書いているが、たぶんヤ党自体が内部分裂していて、言論が一貫していないような気がする。
実際、コッカイについても、何をどうするのかがいまいち決まってないらしいが、それはヤ党だけでなくヨ党の方針にもよっているように思われるが、これは気のせいだろうか。気のせいかもしれぬ。たぶんそういう気もするのだが、よくわからん。



唐突だが、昨日に書いた妄想のつづき。あまりまとまる予感がしないが、妄想なので良いではないかという観点から、ちょっとだけ続けてみる。
1)昨日そういえば、使用する音として「人の声」みたいのを挙げてみたのだが、どうしてそれに注目するのか、実は自分でも分かっていない。たとえばこれは前衛家の音楽とは関係がなく、どちらかというと、現在の自分の趣味のようだ。
で、これをもう少し進めてみると、昨日は「声」について「絶叫」「爆音」みたいな表現をしていたのだが、あらためて考えてみると、必ずしもそういうのである必要はない気がしてきた。もちろん、昨日に念頭においていたのは、ハウリングボイスもそうだし、あるいはある種のサックスによる絶叫的な演奏や、ノイズギターみたいな音のイメージである。そういうのをスライスしてみる音楽、というのを想像してみた。
けれど、必ずしもそうである必要はないかもしれない。たとえば今、思い浮かべているのは、どちらかという低くめで、音圧もわずかで、聴いたそばからフッと消えてしまうような声である。男性/女性はとわない。うまく説明するのが難しいが、たとえば通りすがりに誰かにサッと声をかけられ、何をいわれたのか認識できないうちにその誰かが通り過ぎてしまった、というようなときの(たぶん誰もが何度かはそういう経験はあるだろう)声である。
つまりは、何かをいわれたし、それははっきりと分かるのだが、何を言われたのか認識する前に消えてしまうような声。あるいはそのようなものによって構成された音楽。こういうのは、あるのだろうか。



こうやって書いてみると、つまり声のテーマが浮き上がってくるように思われるのだが、これはなんとも難しい。単なる個人的な勉強不足なだけなのかもしれないが、ここで言おうとしているのは、たとえば声の「肌目」でもないし、もちろん絶叫でも、あるいはいわゆる喘ぎでもない。
ちなみに脱線すると、これは今おもったのだが、ごくまれに、こうした使用している「音」について、それを何か本人の欲望のあらわれのように評するものがあるように思う。たとえばノイズギターならそれは「破壊」だったり、場合によってはチンチン的な表現であるとか。あるいは、サックスの絶叫なら、それをそれこそ「絶叫」と捉えたり、あるいは「喘ぎ」として捉えたりするもの。
で、それはそれでいいのだが、これは今思ったのだが、そのような見方をした場合、上に書いた「声」は、たとえば「ソフトな声が静かに包み込んでいる」というような形で理解されてしまうような気がする。それを端的に言い換えると、たとえば「胎内回帰」とか、母性がどうこうとか、なんかそんな表現みたいなことになりそうである。
けれど、ここで言おうとしているのはそういうことではない。そもそも、なんでもかんでも音や楽器をセイ的欲望に見立てるのも変である。あるいは、それは認めるとしても、とにかくすぐさまちんちんかおっぱいかにしか変換できない形容は、いささか子供じみているような気がする。たしかに世の中ちんちんとおっぱいは大事であるが、しかし他にも、たとえば腰つきとか、あるいはちょっとした体の線とか、世の中にはそういうものも沢山あるはずだが、「声」や「音」をめぐってはあまりそうした形容は聞いたことがない。
ちなみにつけくわえると、ひょっとするとその理由として考えられるのは、そうした身ぶりや輪郭線のようなものは、目で捉えたと思ったとたんに消えてしまい、常にうつろっていくからかもしれない。たとえば映画がもっている魅力の一つは、そうした捉えたと思ったら消えてしまういくつもの体の線があるからだと思うのだが、それとおなじことが、声についても言えないだろうか。
とはいえ、よく見ているわけではないがテレビでメジャーな映画をみると、現在はどちらかというと体の線より、顔面筋というか目の周辺の動きが主体みたいなので、誰もこんなことにはこだわらないかもしれない。ふらりとうつろっていく俳優の身体など、誰が見ているのか、その観点からすれば顔などどうでもいいようにさえおもうのだが、この議論自体がどうでもいいのかもしれぬ。



で、何を言いたいかと言うと、言いたいことは、とくにない。ただ、さて「声」をどのように捉えるかと言うときに、それはなかなか難しいということを書いてみただけである。



オチがないので困ってしまった。
そんなかんじで。
次に続く。