続き続けている続きの続き

どうでもいいが、ダルな気分である・・・暑い、のかしら。どうなのかしら。とはいえ、あまり緊張感のないままここで文章を作ると、多少はナーバスなネタを扱っている気もするので注意が必要だ。
と自分に向かって書いてみるが、そんなことは自分にとっては書かずとも分かっていることであり、書いたとしても注意するかどうかは全くの別問題なのだった。


とりあえず今わかっているのは、明日のウィークエンドの5時の回に突撃することだけである・・・誰か観にいく人はいるんだろうかとか書いてみるが、たぶんいなそうだからどうでもいいや。
そんなかんじであった。



唐突だがいま興味があること。
1)声の問題はなんだか面白そうだが、今日はつかれたので次につづく。


2)たまにフキンシンなことでも書いてみようかと思い立ってみた。
どうでもいいが、先月あがつま橋に行こうとして、そのとき足を伸ばしていこうと思っていた「アトmikサイト」には、あがつま橋もろとも行くことが適わなかった。その日程以外でも、「ゲンパツ供養祭」のようなライブが行なわれており、メンツ的にすごそうだったのだが、ちょっとコンセプトがマジそうだったので躊躇してしまった。後悔ばかりである。


で、そのライブの告知をネットで眺めながらおもったのだが、どうでもいいのだが対抗した案を考えてみた。だがこれは、コンセプトだけで、具体的な内実を欠いている。ので、とりあえずコンセプトだけ書いてみよう。
で、結論からいえば、それは「ホーシャノー祭り」のようなものである。いうまでもなくそれはホーシャノーの神に捧げる祭りだ。よくしらないが、ヤオヨロズ的にはあらゆるところに神が宿るのだから、たぶんホーシャノ―の神だっているんじゃないか。というか、いないとおかしい気もする。だとしたら、その神のための祭りだって、あってもいいではないか。そういう祭り。
いいかえれば、これは個人的な考えだが、どちらかといえばまだ活動を止めていないゲンパツをフィクショナルに供養するより、いま荒れ狂っているホーシャノ―の神をシズめる儀礼を執り行うべきのような気がするのだ。もちろん、ことはフkushiマに限ったことではない。トーキョーだってカンサイだって、どこでもいまやホーシャノ―はあるのだから、舞台になりうる。


念のために書くと、ここで考えているのは、もちろんだが祝うのではなく、「ホーシャノ―の神」をシズめるための祭りである。よくしらないが、昔の祭りではそういうのがあったのではなかったか。ホ―ノー祭とか、そういうやつだ。
もちろん、ミハシラはいくつも(あるいは何ハシラも)あるだろう。未だによく分かっていないが、ホーシャノ―といってもセ×ウムやヨ×素だけで153だの154だの、沢山あるらしいではないか。それら全部にミハシラをおいて、彼らをシズめるための祭りをおこなう。
そんな祭り。



で、まあ全体のコンセプトはこんなかんじなのだが、本当に考えてみたい問題は、実はむしろここからである。それは、どういう祭りがあり得るかという問題だ。これは、なかなか難しい。
難しい理由じたいは、簡単である。それは、まあ、これは誰もがそうだと思うわけだが、率直にいってわたしたちは、ホーシャノーの神が、何をもらったら喜ぶのかしらないからである。かつての出し物だと、ミコシとかシシマイなどをすればよかった。場合によっては、何かの供物などを捧げればよかったわけだ。とすれば、おそらくそれに似たダシモノをする必要があるのではないか。
だが困ったことに、ホーシャノ―の神について、個人的にはあまりよく知らない。見たこともないし、聞いたこともない。そのへんをウロウロしているらしいというのは毎日のシンブンなどで知っているのだが、具体的にどういう影響を及ぼすのかもわかっていない始末だ。解決するのは、ただ時間だけであるらしい。
ではどうすればよいのか。それがまったく思い付かないのだった。


というわけで、つまるところ、コンセプトはあるのだが中身を思い付かないのであった。ただ、なんかよくわからないのだが、どんなダシモノをすべきかというのを考えてみるのは、なんとなく面白そうである。シシマイにかわる、21世紀の祭りのダシモノ。ホーシャノーの神々のための踊りや、ささげものなどだ。
念のために繰り返せば、これは祝っているのではない。あるいは、ヒガイをうけた方々の侮辱を意図するものではない。そこでどういう祭りがあるうるかについては、すでに半年間にすぎないが、すこしではあれ、考えてみた。それとは別に、古来からの伝統をいかに捉え直すかという問題・・・かもしれぬ。だがこれは、ひょっとすればヒトゴトではあるまい。少なくともホーシャノーをめぐってセッケンやアルコール類を買い占めたりしたのが現実である世界に、いまはあるのだから。
だから、わたしたちは、そういうものを考えることが出来るのだろうか。あるいは、祭りにかんする想像力は、ひょっとして19世紀くらいでストップしているのではないだろうか。テクノロジーの進歩とともに、そこに失われたものがあることが実感されたりしないだろうか。
まあ、ぶっちゃけると、あまり実感しないような気もするのだが、それはどっちでもよろしい。これがフキンシンなのかどうかもわからないが、思い付いたのでとりあえず書いてみた。つけくわえると、展示としては「永遠に終了した」と書いてあったようだが、個人的にはアトmikサイトはまだ終っていないし、あるいは「いま/ここ」もそうであるかもしれないとおもう。
だからどうしたわけではないが。



最近、思いつきで書くためにオチがないのであった。
しょうがないので、
次に続く。