残っていた続きのつづき

どうでもいいのだが、やたらに暑い・・・今日しっかりと認識した。これは、残暑ではないようである。どちらかというとモウショ。
じゃあ何が違うのかと言われると、あまり違わないのだが。気分の問題かもしれぬ。どちらでもよい。



唐突だが、まだ書き残していたこと。
1)半年間で書き残していたネタを書くつもりが、なんかだんだんと新しいネタを書きつつあり、声のはなしとかそんな感じになってきてマズいとおもうので軌道修正。


2)どうでもいいが、このまえ「サンプリング音楽」ということで、チョサク権との関係でプランダ―フォニックスを挙げてみた。たぶんこのカードを切るのは、まあ王道のような気がする。
で、すこし脇道にそれると、そういえばだいぶ前にキクチさんが、ブログだったか、本だったか、なんだったのか媒体は忘れたのだが、パkuリについて書いていたのをボンヤリ思い出した。
はっきり覚えていないが、確かそのときに指摘していたのは「輪郭線」問題とかいうのだった。つまりコード進行にかんしてはパkuっても誰も文句をいわないが、そのコードに乗っけたメロディをパkuると(つまり具体的な輪郭線をパkuると)途端に騒がれる、というようなことだったと思う。ちがうかもしれん。ひょっとすると逆かもしれんが・・・いや、逆ではないように思う。そういうかたちで、チョサク権が発生する領域について議論していたようにおもう。


で、あらためて考えてみると、これはこれで、へんな問題である。絵画でいえば、たぶん構図をパkuっても誰も文句をいわないが、図像なり図像の輪郭線などをパkuると怒られるようなものだと思う(←そしてそれは議論として成立し得ると思う)。
しかしこれが変なのは、コードや構図と、メロディや図像と、どっちが開発するのに大変かと言うことである。たぶんどっちも大変だと思うのだが、ザックリとおもうに、おそらく長期的な射程をもっているのは実はコードや構図のほうではないかとおもう。もっというとエンキン法とか。


・・・うーむ、だからどうしたといって、とくに言うことがないのであった。ただ、なんか前衛家のつぶやきをみていたら、そういえばこういう議論もあったなと思い出しただけである。ここには何か、法のタッチする領域と、文化面で評価される領域とのズレがあるようにおもうのだが、どうなのだろうか。
いいかえれば、チョサク権において争われるのは、一体なんなのか、つまりはシロウトでもわかる範囲においてのみ(パッと見てわかるところだけで)争われているのではないかと言うことになる・・・かもしれないし、ならないのかもしれない。
もっというと、シロウトがわかると言うことは、つまり広い客層にアピールできる=売れるということなのかもしれず、そうした意味においてのみ(つまり経済価値がつく/つかないということを境にして)チョサク権問題が発動するのかもしれない。もしそうなら、チョサク権問題はケーザイ問題であり、あんまり文化的な価値の進展と直接的なつながりがない、ということにもなりうる。←なおこの意見は、すべて適当であるので、引用厳禁かつ注意が必要である。つけくわえると、書いている本人もこの意見を信用していない。念のため。
ちなみに、たまにつぶやきがカオ×ラ×××について触れているが、アレはあまり手を出すとキケンな香りがする・・・が、前衛家には以前あいさつしたときに、この文章を読んでいないと明言されたので、まあよくわからないが好き勝手に書いてみた。ただ、あんまりうかつに触れない方が良い話題の気がする。ちなみに個人的にはそれについてとくに意見はない。



おや、軌道修正するつもりが、よく分からない方向へねじ曲がっているような気もするが、まあいいや。そんなかんじで、
次に続く。