残り続けている残りのつづき

すこしだけ間が空いたが、世間はどれほど変わったのか、そんな問いにたいする答えがどこかにあるとは、決して思えない今日この頃。
どうでもいいが、なにやら色々見のがしてしまった・・・見のがしたという言い方は正確ではないのだが、見ないままにしてしまったのは事実である。ユメの島で何かが起きたらしいのだが、とりあえずつぶやきをいくつか拝見しても、何が起きたのか全く把握できない。困ったものである。


ただ、つぶやきをみていたら思い出したことがあって、それはどれくらい前であったか、この半年以内なのだが、たしかここでゴziラのネタを書いたことがあった。まだ見ぬことのできないゲンパツのなかを空けたら、ゴziラがいるんじゃないかとか、そんな話である。この文章を読んでいる人は、たぶんそんなネタを書いていることを覚えているだろう。
で、それはどうでもいいのだが、単にシンクロに過ぎないとは思うのだが、その話を書いた直後にアメヤさんのつぶやきで、唐突にゲンパツ関係の話をされていたことを思い出したのだ。去年の作品で置かれていたものがトーデンの方のものだったこと、ゴziラのスタッフだったtsuブラヤがフkushiマのひとだったこと、あるいはその作品に積まれていた土とホーシャノーについての想い出、レントゲンとホーシャノ―の関係等等。正直、そんなことをその人が知っているのみでなく考えていることなんて全く思っていなかったので、とても驚いた記憶(だけ)がある。
で、何が言いたいかと言うと、そういう想いがひょっとしたらユメの島で結実していたのかもしれず、それについて思い付いたのは、しかしすべてが終った昨日や今日だったということである。いつものように、なにかを取り逃がした感じ。
だからどうしたわけではないが。



唐突ではないが興味のあることの続き
1)声の問題を放置していたが、そのとき書いたのはサンプリングをつかった「低くて微かで、意味の聞きとれないような、けれどはっきりと聞こえる声」のようなものについてだった。
で、これについては、単に書いているだけというより、ある種の妄想作品として、実はコンセプトも考えてみたのだが、それについてはまだ整理がうまくできないので、次に続く。
その一方で、しかしサンプリング音楽をいくつか聞いていると、実はすでにそういう性格の作品はあることにも思い当たった。
とくに思い出されるのは、アルビン・カランのCDなどである。個人的にはなかなか勝手な思い入れがあるのだが、困ったことに、この人の作品について、日本語で書かれたものを読んだことがない。どうしてなのか、その理由もわからない。なにかジンカク的に問題があるのだろうか(すごいイチャモンをつけるとか)、それとも作品の性格によるのだろうか。
性格だとすれば、それはある程度、わかるような気もする。実際、そのCDはどれもサンプリングによっているが、けれどいわゆるカットアップや、激しい展開のようなものに満ち満ちているわけではないようにおもう。かといって、しかしいわゆる静寂的な演奏と言うわけではない。かなり明瞭なコラージュである。要は、こうやってみるとたとえばラディカルさを一般的にアピールするような文句を思い付きにくいといえるかもしれない。しかし個性がないかと言うと、そうではないような気がする。では、それは何か。
あくまで個人的な感想だが、そのCDに共通しているのは、どこかうっすらと流れていくような一つの運動のような印象だ。さまざまの音源を使っていくのだが、別にそれで構築物をつくるわけでもなく、ただずーっと組み合わせることで、プロセスの中に動きを生み出していく。ただそれだけをやっている。ただし、作品によってそのつどの速度や濃度が異なるし、おそらく音源にこめられた意味性によっても印象はかなり変わってくる。その全体のあり方が、非常に個性的なのではないか。それは、しかし明瞭なレッテルとしては表明しづらい何かのような気もする。
それ以上のことは今は書けないのだが、個人的にはこうした作品について、何か関心がある。ようだ。
というか、関心があるようだということ自体、いまわかった。じゃあどうすればいいのかというと、それについては全くわからない。
ので。
次に続く。


2)話はかわるが、前にふれたNISEニッキの人のブログを拝読していたら、「マワるピン×××××」というのに熱い文章が書いてあったので、実は2回目から見てみた。正直、その文章を読んで、とにかく詳細な分析が綴られているので、最初はずっと(うそだー)と思っていたのだが、回を重ねるごとに提出された構図があたっているので、正直ビビる。
で、とにかく分析がすごいのだが、ひとつだけ突っ込むとすれば、この作品の舞台がマルno内線であることに全く触れてない・・・というかもっといえば全部がチカ鉄の話である。
だからどうしたわけではないが、プロジェクトエムといわれると、それはひょっとしてmarunouchiのエムとか、あるいはmetroのエムとか、そういうのもアリはないかと思うのだが、それについては詳しい人がもう言ってそうな気もする。ちなみに作品自体については、普段アニメとか全く見ないので、激しいレベルの高さにアングリしているのがせいぜいであった。ここ2回ほどは、ちょっとクリシェかもしれないけど。


ちなみに脱線すると、実のところ、内容自体より、主題歌であるやくしmarueつこの方に愕然とした。いままで正直ソ―タイセー理論には全くピンと来なかったのだが、今回はじめて、(あーなるほど)みたいな気がしたのである。まあ、ひょっとして演奏やアレンジが実はバリバリのアバンガルドな人たちであるせいかもしれないが(←よくわからないが、オートモさんの「ヤマシタタケオをキる」を現在版でやっているような感じとか思う)、それだけではなく。
今さらこんなことを書いてもマヌケなだけかもしれないが、ここでも気になるのは声である、というか、すごい(変な)歌い方をしていることに初めて気づいた。しかも特徴がいくつもありそうで、一つには単にメロディに乗せているだけじゃなくて、それを歌うときにすこしだけズラしているような気もするが、もう一つ、少なくとも声の使い方がガクガクかわる。しかもかなりバリエーションがあって、どうも意図的に変えている。つまりはかなり変な歌い方だが、しかしアレンジのせいなのか何なのか、あんまりそういう気がしない。困ったものである。
で、たぶん普通だったら曲の後半のサビの方がいいのかもしれないが、個人的には最初の方が驚いた。何をいっているのかサッパリわからぬ低い声である。現在の妄想上では、もっと低く、もっと何をいっているのか絶対にわからないところまで加工すべきだとか思うが、そういうことは求められていないのだろうからどうでもいい。しかし、にもかかわらずこういう歌い方でやってくるところが、よく分からないが普通ではない。困ったものである。


ちなみにそう思っていたら、この人もつぶやきをしていて、しかも変な宣伝ループみたいなことをしているのだが、それよりも自己紹介のところが完璧で、ああ、つまりはここにも女子がいるのだと思った。女性ではなく、女子。
しかもひょっとすると、もうすでにオッサンたちは皆、彼女に飼い馴らされてしまったのかもしれない。沢山の人が参加した「正しいソ―タイセー理論」という作品集があったが、あそこの「正しい」というのは実は中身というより、つまりはオッサンを飼い馴らしているあり方そのものなのではなかろうか。とするなら、あとに残されたのはやはりヘンタイ的なアプローチしかないのかもしれないが、それがどういうものなのか、まだ分かってはいないのだった。


そんなかんじで久しぶりに長く書いてみたが、どうやら何も解決していないようであって、つまるところ、
次に続く。