残っていた続きに新たに付け加えられた何かの続き

どうでもいいのだが、10日ほど間が空いた。とくに意味はなし。久しぶりの感じがするが、その間に風邪をひいてみたり、ぼんやりしてみたり、タバコをすってみたり、ギンコーのカードを破損して諸々の再発行手続きをしたら、その間、手元に現金がないままで何処にも行けなくなって困ったりしてみた。そんなわけで、適当に文章を作ることにしたのである。


どうでもいいが、本屋でオートモさんその他の方の本を、たたたたちよみ。よくわからないが、とりあえず半年たったんだなと思う。あとはよく分からない。
読んでみて気になることがいくつかあったが、一つだけ挙げると、これは批判でも何でもなくて感想なのだが、事故についてどのように語られているか、ということが何度も問題になっている。たぶん、これはこの本に限ったことではないだろう。
で、それはそれでいいのだが、別に批判ではなくどちらかというと興味としてあるのは、いわゆる海外ではどのように語られているかということが気になる。つまり、この手の議論は、その多くがどれもニホン語での語られ方を対象としているようだが、はたして、海外ではどうなのだろうか。
これはあくまで個人的な感想なのだが、ひょっとするとニホン国内と海外では、なんというか表現の仕方がだいぶちがうように思える。実際、今のトーキョーはまるで何も起きていないような光景になっているが、だからといって事故を忘れたわけでは全くないとおもう。それはマヒだけでもなくて、そのようなものとして現実を受け入れ、そのうえで語っているのかもしれない。他方、海外で事故をみているひとには、そうした受容とはちがう(もっと直接的で大事故的な)語り口をしているような気がする。そのへんの違いが、ごく一般ピープルとして、わからないし、興味がある。
あるいは、つけくわえれば「ふたをする」という問題について考えてみるとき、たしかにニホンゴの内部では「ふたをする」ということはありうるかもしれない。しかし「ふたをする」というのは、必ずしもニホンゴに限ったわけではないし、いわゆる外からどう見られているのかということを考えてみると「ふたをする/しない」という以前に、そもそも「ふたをすること自体を許してもらえない」ような気がしている。なにか、海外での語られ方には、そうした強迫的なところがあるような気がするのだ。あくまで個人的な感触に過ぎないが。もちろんこれは、ヒハンなどではない。
というわけでタチヨミしてしまったのだった・・・ちなみにタチヨミした本というのは他にも沢山あり、とくに良くなかったなと思っているのはアランリクトの「サウンドアート」という本である。実はこの本について、半年の間に何度か書いてみようとしたのだが、うまく機会がなかった。というか、上記の理由により、もっていない。でもとても素敵な本だと思って、タチヨミしはじめたら一気に最後まで読んでしまった。よくないことである。




どうでもいい追記
1)久しぶりに書いたらいきなり長くなってしまった。まだ書き残したことは多くあり、たとえば「声」の問題もそうである。
ただ、この問題がやっかいなのは、だんだん進めていくと、妄想であったことを脱して徐々に実現可能なところに接近していくことだ。このまま行ったら、ほぼ何かができてしまう。のだが、それが良いのかどうか、よく分からないのだった。うまくいえないのだが、困ったものである。


ちなみに忘れそうなので思い付いたコンセプトだけ書いておくことにする。前から声を使ったプランダ―フォニック的サンプリング音楽を作りたいとか書いていた。それについて。


結論から先に書くと、具体的なアイデアとして考えたのは、小林ヒデ雄の声による「無常ということ」のリメイクもしくはリミックスである。よくしられているとおり、このテキストは戦時下でかかれ、「解釈を拒絶するものが美しい」という有名な文章をふくむ・・・ということは言うまでもない。
で、ここで考えたのは、そのテキストを再編集し、それに小林の声をあわせて、コンマ数秒の発音の連続によってリアライズするようなアイデアである。素材については小林本人の声があるし、テキスト自体は現状にあわせて再編集というか、数語だけ残す形に再構成しておく。おそらくこれは、たぶん実現不可能ではないとおもう。あとは長さとか構造とかの問題だが、そこまで考えると、本当に実現できてしまいそうで困る。念のためつけ加えると、これはあくまでアイデアにすぎない。


ついでにいうと、ちなみに、どうしてそのテキストなのかということについては、かならずしも明確ではない。ただ、なんとなく感覚的に、このテキストに手を加えたり、あるいは再解釈してみたいような気分がどこかにあるのだ。
うまくいえないが、ひょっとするとこのテキストの内容自体には、あまり賛意は示せないかもしれない。単純に、いまはホーシャノ―にせよジシンにせよ、常に解釈と判断こそが重要であるようにも思われるからだ。ある意味で、個人的には、もうこのテキストの価値は失われたような気さえしているというと、言い過ぎかもしれないが。まあ、そんな気分になったことがあったのであった。
で、しかし、ではすべての内容が終わりかというとそうでもないかもしれない。小林自身の声をつかい、それを変形させ、薄切りにしたとき、それでも何かある固有のものが残っているかもしれない。ここで興味があるのはその何かについてである。
それは、もうあらゆる解釈や操作を経ながら残された何かであるかもしれず、ただ残された声から聞こえてくる何かかもしれない。いいかえればその何かは、解釈を拒絶して残されたものかもしれず、それを通じてかろうじてテキストに接近できるかもしれない。
あるいはさらに言い換えれば、そうした形で、あらためて声にアプローチしてみることも、ひょっとしたらできるかもしれない。それは、顔でもなく、意味でもなく、ただ声そのものがもつ動きついてのアプローチといっていいかもしれないのだが、そう言うにはまだ詰めが甘いか。


・・・とかいうことを考えてみた。ちなみにこれはたぶん実現可能だが、前にも書いた通り、技術も何もないのでさしあたり不可能なのである。というか、ほったらかしにしておくと本当に忘れてしまいそうなので、とりあえずメモしてみたのであった。
といっても、メモする目的自体もよくわからないが・・・どうでもいいか。


2)つかれた。



ので、


つぎに続く。