続きと関係のない些細な事柄の続き

どうでもいいが、今日はとても街が混んでいた・・・いきなり街について書くと、シンサイとかホーシャノーとかの関係で、「トーキョーは何もなかったかのようになっている」みたいな文章を見かけることがあるが、個人的な理解では、少なくとも池袋は全くそうではない。
というか、たしかに街を歩いている人は「何ごともなかった」かのように歩いているのだが、そのほぼすべてが(いわゆる)ニホンジンである。これが決定的にちがっている。


あまり知られていないかもしれないが、つい半年ちょっと前まで、池袋は観光客でいっぱいだった。あるいはロサ側の方は実現しなかったが「リトルチャイナにしちゃうかも」みたいな問題もあり、つまりはそれくらい(いわゆる)海外の人が沢山いた。
だがその光景は、3月以降、まったくもって失われたままである。たしかに街に人は沢山いるし、みな普通そうな顔をしている。だが、それは一体いかなる意味において「普通」なのか。街は変化したまま、戻っていないように見える。
とはいえ、「何ごともなかったようだ」と言う人にとっては、そんなことはどうでもいいのだろう。街を歩いている人の顔や表情だけをみれば、たしかに何ごともなかったかのようである。何が変化したかと言うことについて、まるで顔面だけをみれば分かるかのようだ。
ちなみに、だからどうしたかといえば、別にどうもしない。いったいどういう顔面をしておけば「何かあった」かのように思われるのか、少し興味があったりするが、たぶんオニのような形相を期待されているのだろう。でもそうすると問題は、オニってどんなカオしているのか、よくしらないことである。というか、誰か知っているのだろうか。赤とか青とかのペンキを塗るとか?ツノを生やすとか?
・・・無理。




うーむ、色々と悩んだ挙げ句、誰が読んでいるのか知らない客としての業務連絡だが。明日あるらしいコトバについての企画は、やはり一度スルーすることにする。ひとつは一昨日に書いた個人的なフトコロ異常があるが、それは手元にあった外貨を換金してクリアしてみた。なるほど現在の円高を実感したものである。
いやそうではなく、やはりコトバとメンツでゲスいのは、興味津々の一方で、やはり様子見したほうがいいという気分に。一つ気になるのは出演者がぜんぶオッサン(オトコ)であること、あと内輪でゲスいとケンカしそうで、関係したくない気分が山盛りである。
というわけで様子見のため一度、スルー。たぶん面白かったら二度目があるのではと勝手に予想。という客モード。エラぶりたいとかでなく、素直な気持ちで。




どうでもいいが、「マワる××××」を見ていたら、普段はアニメも見ないし、これからも見る気がないので一般ピープル的な感想だが、思った以上に問題作だなとおもう。適当に感想。あまり信頼しないでほしいが、だからといって反感を買いたいわけではない。
で、ひとつには、チカテツさりン事件の事後談、という性格もある。たくさん映画を見ているわけではないが、同様の主題に「カナリア」というのがあって、オートモさんがサントラを手掛けていたが、それは「強く生きる」みたいな主題が打ち出されていて、とても感動した記憶がある(←この文体だとなんかバカにしているみたいだが、そういうわけではない。念のため)。
で、これもだんだん似たような設定のことなのだと了解されてきたのだが、とりあえず大きく違うのは、前提として「きっと何ものにもなれない」というところからスタートし、かつ、その状態をこそ死守しようとする(=そこに幸福と日常がある)ということが、とりあえず半分まできた時点で維持されていること。つまり上記の作品とは全く違う出発点で、これがどう変わるのか、あるいはアニメなのにこんなにシリアスな問題を提起し、かつ先へ進もうとしているかんじがあって、ビビる。
あと演出もとにかく手数が多くて、毎回これでもかと新たなイメージが出てきて、あんぐり。だからといって他のを見るとか思っているわけではないのだが。


もうひとつ、今回わかったのは、この話が「3」をめぐる交換可能性の話であること。つまり作中に沢山のカップルがでてくるのだが、それは実は背後に常にもう一人いる「3」であり、けれどそのうちの一人が(何らかの理由で)撤退して「2」になる。そういう構図が貫いているらしいことが分かる。これは主人公の双子だけではなくて、リンゴみたいな女の子と先生をめぐる関係も同様だ。
とすると、たとえば気になるのは、ペンギンの帽子をかぶっている人がこれまで二人登場したが、ひょっとしてもう一人いるんじゃないかということとか、そういうことを思うが、よくわからない。


いや、そうではない。実はもっとも驚いているのは、毎回ナゾのあるサスペンスのようでいて、実はそうしたサスペンスとは別次元で登場人物の喜怒哀楽や感情が描かれていること、その語り口である。たとえば今回も、95年の事件が明かされたりペンギン帽子の話がわかったりするが、しかしそうした謎解きと、妹を失う主人公の怒りは関係がないまま、両方が語られている。これが個人的には、けっこうスゴい。
別の言い方をすると、いわゆるサスペンスの場合は、作中人物もそれを見ている視聴者も、その謎を知らない。だから、謎が解かれていくプロセスが作中人物の心の動きにもなるし、かつ、視聴者にとっての驚きでもある。あるいは、だからこそ謎の解決が、キャラクター的にも視聴者的にもクライマックスを形作ることになるだろう。
だがここでは、一見サスペンスのようでいて、実はそうなっていない。ここで謎を知らないのは、実は視聴者だけである。登場人物は、皆、何がかつて起こり、いかなる集団が存在するのか、全て知っているのだ。だからサスペンスが解かれたとしても、それは視聴者にとってだけであり、登場人物には影響がない。彼らは、サスペンスとは別次元の「事件」によって(車にひかれるとか、日記を落とすとか、そういう具体的な事件)悩んだり動いたりする。
さらにいいかれば、だからおそらくここでの語りの構造は、少なくとも二層になっているようだ。ひとつは、視聴者向けのサスペンス(主として「回想」をキーとする)、もう一つは、それとはちがう事件の連鎖によって引き起こされる様々な事態。これらは繋がっているが、語りの位相としては並行して行われているように見える。
つまり何が言いたいかというと、この物語は毎回毎回どこへ向かうかわからない独自のリズムを持っているように思われるが(またそれがとても面白いとおもう個人的なポイントだが)、そのリズムは上記の二つの相互運動によってもたらされているようにおもわれるのだ。というか、この二つを同時に動かしていること自体、けっこう大変なことのようにおもう。
単純に言えば「説明」と「描写」になるのかもしれないが、その二つが、すこしずつ重なったりズレたりしながら進められることで、予想外のリズムを生み出す。そうした語りの力学のようなもの。そのうえで、しかも着実に物語自体も前進していくのだ。くりかえしだが、それはけっこう大変なことなんじゃないか。


で、そういうのって、他のジャンルでもあまり知らないとか思ったりしたのだが、別に物知りではないので個人的な感想である。なんかけっこう大変なことをやっている気がするが、なんか長く書いてしまったが別に深く考えているわけでは全くなかった。



・・・おや、本当は昨日の補足説明みたいのをしようとおもったのだが(少しマジメなかんじで)、なんかもう長いので次にする。



というわけで、やはり同じことだが、
つぎに続く。