唐突な関係に関連する関係はない続き

どうでもいいが、ふたたび1週間ほど間が空いた。とはいえ、それは文字上ではあたかも何もなかったかのようにみえるのだが、そもそも「間が空いている」ということの事件性をどう捉えるかと言うことについて、深く考えるつもりは全くなかった。
そんな1週間。



どうでもいいのだが、


唐突につぶやきをはじめてみた。ユーザー名?とか氏名?とかプロフィールとか、名前を書かねばならぬ項目が多くてよく分かっていないが、とりあえず
dou_shokubutsu
で登録してある。とはいえ、とくに書くことがないので、ゼロからはじめることにした。というか、ゼロについての文章をつくってみた。そんなことを、ついさっきしてみたのである。


どうでもいいのだが、ちなみにこれは、ある意味でちょっと前に続けていたレッドゾーンの、個人的な続きという気分。というか、そこから社会問題を外してみたらどういうことを考えるのか、そういうことを考えてみたところ、実は1か月前からこのアイデアから離れられなくなってしまった。単純に言えば、ゼロという数字をめぐる、虚構と現実の関係についての事柄である。
だからといって別に大したことを考えたわけではなく、とりあえず何かのキッカケにでもならんかなと思ったくらいだ。たとえば、前世紀のフィクションとかで「無限」とか「無」というのはしょっちゅうテーマになっているが、あんまりゼロというのをテーマにしたのを見たことがない。ちなみにゼロが「無」かというと、このへんはよく分からないのだが、ここでの関心はゼロを「無」としてしまうと、では「マイナス」の世界はどうなるんだという興味から発している。つまり「無」というのはどちらかというとマイナスで、ゼロは、単にプラスとマイナスの中間地点にすぎないのではないかとか。というか、そういうことを考えはじめると、ゼロが変な数字であるような気がしてくるのではないかとか。そういうことを考えたり忘れたりしてみた。
で、なかなかまとめることもできず、どうして良いのか分からないので、断片的にちょいちょい進めてみる、とか思ったりしてみたのである。だからといって、誰かに引用されるほどの内容は無い。というか、引用してもしょうがないような内容の方向性である。



ちなみにつけ加えると、つまり「ゼロ」という数字について考えたり小話を思いめぐらせたりしているわけだが、こうしたアイデア自体は、すでに行われているような気もする。あんまり知らないのだが、とくにポ×トモダンというような流れでは、しょっちゅう「ゼロ記号」が云々というような言い方を聞いたような気がするし、あるいは「体系を背後で支えている不可視の記号」とか「ヒテー神学」とかも、ゼロにかかわってきそうである。
そういうことは分かっているのだが、ここではとりあえずそうした記号としてのゼロではなく、どちらかというと操作概念として捉えてみようとしてみる。
たとえば上記のように、それを置くことでプラスとマイナスが出現する座標軸の基準として、とか。それが変わると座標軸全部が変わってしまうような操作の主体として、とか(たとえば摂氏と華氏のそれぞれのゼロ度について、とか)。
あるいは方程式の解法での、因数分解するときに全部を「イコール・ゼロ」で合わせていくことで、括弧を開いたり閉じたりすることの出来る機能とか。というか、そうすることで色々な式が連結していく、そういう運動をつくりだす蝶番のようなものとしての機能とか。


あるいは、そうした数字の現実的な側面とか。つまり、たとえば年齢におけるゼロ歳というのを考えてみると、それは誕生日からの1年間だ。その意味ではきわめて抽象的なのだが、しかしこれは現実においても存在しており、そこではたぶん個々人がちがった日付けをもっている。というか、単純に誕生日は一人一人ちがうではないか。
それは裏を返すと、一人一人が個人的なゼロ歳という期間をもっているということでもあるだろう。あるいはさらに言い換えれば、そういう形で、ヒトの年齢(や人生)は、そのようないくつものゼロに規定されている(だけ)なのかもしれない。あるいは、この観点からすれば、ゼロは終わりではなく、むしろ始まりか、少なくとも一つの基準点にすぎない。そして、おそらくこの社会には、そうした社会的に存在するゼロが、無数にあるようにおもわれる。



・・・とかいうことを考えたり忘れたりしていたので、そういうことをヘンタイ的色彩を加味しながら文章としてつくってみることにした。だからといって、何かを言いたいわけではまったくない。


つけくわえると、最初(こんなことを考えても別にヘンタイではないな・・・)と思っていたのだが、あれこれ考えていたときに気づいたのは、そういえば上記のように貨幣をゼロと捉える考え方があるようだ。で、そのゼロを、単に記号としてではなく、具体的なブツとして考えようとしてみたとき、そういえば「生きた貨幣」とかいうヘンタイ伯父さんのコンセプトがあったことを思い出し、困ったり困らなかったりしてみた。たしかそれは、ヒトを貨幣として扱い、流通交換させようというアイデアである。ちょっとどうかと思うが。
とはいえ、あまりよく知らないが、ゼロをただの記号としてではなく、記号ではあるけれど実体も伴うというフカシギな関係において把握すると、おかしなことになってしまうかもしれない。だが、それが実は現実かもしれない。そのフカシギなところにフォーカスして、ちょっとだけ文章をデザインしてみる。という気分である。そのようなところが、レッドゾーンの続きと思われる部分。
・・・みたいなことを考えてみようと思うのだが、ここまで書いて明らかなように、まったくもって意味がないので、だからどうしたわけでもない。




こんなろくでもないことに字数を使ってしまった。・・・いや、しかし、あらためて考えてみよう。そもそも、ここでいう字数について、ゼロ字というのはあるのだろうか。それは白紙と同義なのだろうか。
たとえば、文字を書かないがイラストを描いた場合、それはゼロ字なのだろうか。それは、白紙と同義なのだろうか。白紙をかんがえることと、ゼロ字を考えることは、似ているようで全く違うような気がする・・・
のだが、それについての答えはまったくもってわからないままである。



というわけで、
次に続く。