唐突な関係に関連のない関係に関係するとは限らない追記

誰が読んでいるのか知らないが、変なことを書いた翌日はいそいで真面目なことを書くと言うのが、ここ半年の定番である。というか、そうしないとハッキョーしたと思われかねないと言う危惧なのだが。
その危惧が誰に向けたものなのか、分からないので、とくに意味はなかった。



昨日の内容にちょっとだけ追記。そういえばゼロが主題のものといって、ぼんやりしていたらいきなりロブグリエの「消しゴム」があることに、いきなり気づいた。困ったものである。というか、そういうことを主題にすること自体が困ったものだ。
ついでにいうと、やってみて分かったのだが、実は最初は詩みたいのを書いてみようと思ってみた。書けるかどうかはしらないが、書いていけないという理由はどこにもあるまい。
と思ったのだが、個人的な感触として、どうもメディアとしてはあまり詩には向いていないような気もする。とくに、韻律をふむのが難しいと言うか、単純に言うと全体を俯瞰して推敲するのが、けっこう面倒くさい。もしくはできないメディアのようだ。140字内であらかじめ分節化しておけば可能かもしれないが、長くなるとけっこう難しい。
代わりに、おそらくだが、リアルタイムで生み出されるコトバという意味では、かなりの迫力があるだろうことは推測された。そのへんは、メディアとして新しいのかもしれない。もちろんあくまで個人的な感触。
だからどうしたわけではないが。



というわけでマジメそうな話・・・ジジ問題のメモ。とはいえ、情報がシンブンとテレビに限定された一般ピープルなので、そのような意味でのメモである。


たしか土曜日のシンブンに、ふたたびトックの問題。注目は、どうやらミyaギでは、ジチタイがスイサントック導入に難色らしい。チヂがそういったとのこと。理由としては、やはりギョキョーとの合意がとりにくいからのようだ。
一方、ほぼ同日だったがこちらはテレビで、フッコー庁について。なにやらヤ党の意見で、もっと集権的にすべきというものがあるらしい。場合によっては本部をトーホクにおき、管轄するというもの。具体的にどうなるのかは、わからない。
で、わからないのだが、ふと思うに、もしこの二つが仮に事実なら、どうやらコジレルのではないかと思ったりする。つまりセーフが集権的にトックを強要し、一方、ジチタイとギョキョーは反対する、と言うような構図ができる可能性があるように思われるのだが、どうなのだろうか。


いいかえれば、前からのつづきだが、やはりセー策的に、中央集権と地方分権の度合いをどうするか、あるいは地域ごとにどのように色分けするのか、そうした問題があくまで一般ピープルとして、見えてこない。もしくは見えづらい。あるいは、わからない。これは今はギョギョー権の問題だが、これがさらに住宅地建設(再建)や堤防の建設のようなものになった場合、事態はより複雑になるような気もするが、どうなのだろうか。
やはり同日に、ヒサイ地の一部地域で、宅地を避難せずに元の場所に建設するというようなニュースもきく。とすると、この場合のトシケーカクなどはどうするのか。堤防はどうするのか。そうしたものを、中央主導でやるのか分権なのか業界なのか、そのあたりがあまり明瞭でないようにおもわれる。すくなくともニュースを聞くかぎりで。もしセイケンが、ヤ党との協調を重視して、集権化に譲歩した場合、そのあたりがどうなるのか。それについてもわからない。


とはいえ、だからといって問題自体がまだわからない。とりあえず注視するのみ。以上、メモ。




そういえばエヌhケーでフkushiマについての番組・・・を思いきり見のがす。見たのは最後の15分ほど。その後、いくつかつぶやきを拝見・・・色んな意見があるらしい。とくに感想なし。
どちらかというと、文化についての議論がどうなっているのかが、少し気になる。たとえば、それが新しい文化というような捉え方なのか、そうでないのかどうかとか。その辺が、あまりわからず。
とりあえず、あくまで個人的に理解した状況では、そもそもフkushiマから一度、文化は消滅したのではないかということだ。あるいは社会と言ってもいいかもしれない。ヒトとヒトが出会うことを許されないとき何が起こるのかと言うと、それは新しい文化の誕生ではなく、そもそも文化自体が存在しない状況ではないか。
だから、よくしらないが、個人的にプロジェクトについて驚いたのは、たとえばヒトとヒトが出会えないのなら、放送メディアを立ち上げればいいとか、あるいは企画をするなら閉じるのではなく世界中で同時にやるとか、そういう形でのコミュニケーションの作り方の方だ。これは、たぶん口で言うほど簡単なことではないと思う。
個人的には、フェスティバルそのものよりも、そうした内外に開いたメディアを持ちうることの方に驚いた。だからフェスティバル自体も、単純にニホン国内からの目線ではなく、海外から見られていると言う視点を加味しなければ、すくなくともオーソドクスな評価はできないように思う。個人的にはヘンタイなので無理なのだが。


いや、あるいはそういう見方で言えば、具体的なフェスティバルの内実はしらないのだが、むしろそういうメディアやコミュニケーションの作り方自体が、どこかアートみたいだという気がしていたし、今もしている。ひとむかし前なら、たぶん世界中が同時に中継されただけで驚きだっただろうけれど、今はそんなことは当たり前だし、それを当たり前にした上で活動を進めていく。それは、それなりに驚いても良いように思った。
あるいはそれは、メディアアートが美術館の外へ出ていくと言うような光景といってもいいかもしれない。極端に言えば、それはアートによる闘いと言って、何の問題もないかもしれないとか思うが、少し適当すぎるので却下しておこう。
・・・いや、そうではないな。そうではなく、個人的におぼえているのはその翌週に、フリード×ュ―ンゼロというのがあり、雨天中止となり、しかしそのなかで、参加者があちこちに散らばりながらネット上で続けていた。それについては、たぶん全く報道などされないだろう。それは、単に失敗したものとしてみなされるにちがいない。けれど、ここにはどうも共通したものがあるように思われる。あるいは、たとえそれが表面的に失敗であっても、では散発的に行われたものを見れば、決して失敗ではなく、やはり動いているメディアアートとしての側面があったように思う。そして、それはただのメディアではひょっとして把握できないのかもしれないとおもうのだが、これは適当すぎるのでやはり却下したい。
というわけで、だからどうしたといえば、とくに何か追記したわけですらないのだった。



そういえば、明日はウンコビルで企画か・・・いまのところ、体調次第。行く場合は、ゲーダイのハツデン展に行った後、つづけての予定。誰か行く人、いるのだろうか・・・どっちでもいいか。


そんなわけで、結局なんの追記もできていないので、困ってしまった。


ので、
つぎに続く。