追記する必要のなかった追記のつづき

誰が読んでいるのかいまいち分かっていないのだが、今日は体調不良のためイベントをスルーしてしまった・・・というか風邪。というより風邪気味。しくった・・・ので、予定をかえて、とりあえず16日の朗読ものを予約することにする。というか、これから予約する。
あと23日は固定。ちなみにどうでもいいが、ちょっと前にコトバをめぐる企画で何かエラそうに読めなくもないコメントみたいのを書いたが、別に偉そうにするつもりはない上に、2回目があれば行く予定・・・というか予定が存在していないので架空の予定だが。そんなのあるのか。
答えは何処にもない。



昨日書いたことの追記・・・をしようかどうしようか迷い中。別にする必要もない気もする。どんなことか。メモ。


たとえば、ザックリ振り返るに、今年はおそらくネットの社会的影響が広範囲に露呈した年といえるかもしれない。あちこちで起きているセージ的活動がそれらに支えられていることは、少なくとも否定できないように思う。
そうした文脈でみたとき、では昨日書いたようなメディアアート的な活動は、どのように位置付けられるのか。そもそも単なるメディアと、メディアアートとしてのブロードキャストというのは、どのように違うのか。ド×ュ―ンはメディアアートなのか。ただのメディアなのか。
だがその活動は、たしかにメディアのようであって、しかし単なる放送局というには独自の個性のようなものがある気もする。もしあるとすれば、それは何か。あるいは、それを抜きにしてフkushiマでのプロジェクトを議論できるのだろうか。そのプログラムは、単なる技術的なustなのか、ustを使った何かなのか。それを問わずに、いったい何を見たと言えるのだろうか。
とか。




あともう一つ。
これは一般論ではなくあくまで個人的な意見だし、そろそろヘンタイであることが分かりつつあるので信用されない意見であると言うことを前提に、ざっくり思うのだが。
シンサイを受けて出てくるアートとかについて、「新しい」「新しくない」「社会状況は関係ない」というようなフレーズを、何となくあちこちで見る。で、そのたびに、あれこれと思うのだが。
いまのところ、個人的には両方の意見に賛成である。なんでもありなんじゃないかな、とか思う。


ただこれには条件があり。とくに「新しい・新しくない」については、たぶんまだ判断するには時間が足りないと、個人的には思う。この半年の事態をどれほど大きく見積もるかは人それぞれだろうが、まあ、おそらくそれほど軽い事態ではないと思う。それくらいはある程度、皆が認めるのではないか。
そのうえで、もしその事態を受けて、いわゆる「新しい」何かが出てくるとするなら、たぶん少し時間がかかると思う。実際、65年前のセンソーにしても、オーベイを含め、それをシリアスに受け止めて何かをつくり出すのに、最低でも2〜3年はかかっているような気がする。逆に言えば、その影響は世代を超えて、15〜20年くらいのスパンで起きているようだ。
それは、ある意味で当然かもしれない。実際、今の事態をおそらくもっともシリアスに受け止めるのは、この文章の書き手のような年寄りではなく、いま小学〜中学生くらいの年齢の気がする。もしそうだとしたら、彼らが自分の表現に納得するまで、あと15〜20年はかかっても不思議ではないはずだ。
だから、つまりこの事態をうけた表現を見たとき、即座にそれについて「新しさ」のような尺度で測ること自体が、個人的にはできない。というか、よくわからない。それは、作り手が模索している何かを、古い基準で勝手に裁断しているような気もする。もちろんその手続きも重要だし必要だけれど、その身ぶりは、下手をすればただそれを言っている人の身を安全にしているだけになってしまうかもしれない。


言い換えれば、つまり、一体何が「新しい」のか、それがどういうものなのか分からない。何が古いのかは分かる。何がオーソドクスなのかも、まあある程度は分かる。しかし、いったい何が新しいのかは、分からない。
それが分からないのに、何かについて「新しい・新しくない」という評価を下すことが、どうしてできるのだろうか。あるいは、新しいものが古いものから出てくることも、ある程度分かっている。だとしたら、どうして何かを「古い・古くない」と言うことができるのだろうか。というか実際にはそれを言うのは簡単なのだが、その簡単さは、ひょっとすると言っている本人の身を守っているだけなのかもしれない。というか、新しいとか新しくないとか、関係するとかしないとか、それ自体があんまり関係なくて、つまりはなんでもありなんじゃないかな。
とか言うと、全てパーなのであったが、パーにしたいわけではなく、そういうことを考えるとそう簡単には言えないなと、一人勝手におもうのであった。
とか。




そんなことを考えたりしなかったりするわけだが、言いたいことは特になし。あえて挙げれば、日曜におでかけばかりらしいということである。


そんなかんじで、
つぎに続く。