追気に関係する修正のためのつづき

誰が読んでいるのか知らないが、とりあえず16日に予約してみた。夜だけである。アフタートークとか何をするのか知らないが、知らない方が楽しそうなので知らないままでいることにする。



唐突だがいくつかの追記。

1)ここのところ興が乗ってヘンタイという語を多用してしまったが、相変わらずとくに定義が定まらないので、このへんで一度、使用を中止することにする。というか、そんなに性急に自らをヘンタイ呼ばわりする必要が何処にあろうか、あるはずもないという、単純な事実に気づいたのであった。


とはいえ、これについてのどうでもいい文章をつくってみたことで、何かが少しはっきりする。うまくは分からないのだが、ト―サクとして(のみ)捉えるかどうかが、とりあえずのキーだろうか。
実際、どうでも良いと言えばどうでもいいが、クロソ×スキーの文章を読んでいると気づくのは、驚くほどに「実存」というコトバが頻出することである。それは評論だけでなく小説にまで登場しており、どうも前からこれが気になる。いいかえれば、いわゆるシュミラクルの乱舞としての側面が強調されるようだが、実際にはそれにくわえて、特異な存在論のようなものがあるのではないか。そしてそれがあるからこそ、どこか常にヘンなことになってしまうのではないか。そのような点である。


それと関係するかしないか分からないのだが、別の角度から、たとえばウェルズを取り上げてみる。定義がはっきりしないのでウェルズをそこに入れてよいのか分からないが、とりあえず、しかしその作品がどこか奇妙であることは、多くの人が認めるだろう。とくに「上海から来た女」や「黒い罠」などは、一体どうしてあんなことになっているのか、なかなか謎である。
で、いささか思いつきだが、それらの作品を、たとえばコクトーと比較してみる。実際、どちらもある面では共通しているようだ。とくにどちらも「イメージの魔術師」といわれることとか、具体的には反射するイメージ像もしくは鏡についてのかなり執拗な興味がみられる。くわえて、どちらも作品内に「本人」が登場しているということも挙げられるだろう。
が、しかし比べてみると、どこかに大きな違いがある。そんなことを気にしなくともいいような気もするが、具体的にはコクトーは基本的に神話世界をあつかっていて、ウェルズはあくまで現実社会のなかの出来事を扱っているのだ。だから、あるいは別の言い方をすればコクトーの技術はいわゆる特殊効果に向かう傾向にあり、他方でウェルズはあくまで現実をどう切りとるかという、撮影技術のほうに向かうようにおもう。いいかえれば、ウェルズはあくまでも散乱するイメージを、現実社会に落としこむことに、こだわりのようなものがあるのではないか。
そして、この「どれほどイメージを扱っていても、それを現実社会に落としこんだ形でリアライズしないと気が済まない」というような点は、やはりクロソ×スキーにも共通するもののように思われる。飛来するシュミラクルがどれほど幻想的であっても、重要なのはそれが現実社会にどのように嵌め込まれるか、である。「生きた貨幣」にせよ、「ローマの女達」にせよ、それらはいずれも、かつてより存在したシュミラクルが具体的な現実に着地し、そこで出現する奇怪な事態にこそ焦点をあてている。
あるいは、それらの作品がどこか常に「冒涜的」なニュアンスを帯びるのは、おそらくそのせいではないか。それらの作品は、シュミラクルを扱っていると同時に、実は現実社会のイメージを変形させているのだ。だから、提示されるのは不吉に歪んだ現実のイメージということになるだろう。そして、つけ加えれば、それはあらかじめ侵犯を目指していると言うより、シュミラクルについての考察を進めたり、操作していった結果、そうなってしまったことのように思われるのだ。



もちろん、この議論には何の根拠もない。また、これを書いている書き手自身も、この議論を信じていない。ただなんとなく文章をつくっているだけである。
その上でもう一つだけつけ加えると、あくまで個人的な感触だが、たとえばデビッドリンチにはそうした「冒涜的」な感触を、なぜか持たない。わからないが、どうにもその作品に溢れるイメージは、あくまで作家本人の脳内に蓄積されていた個人史のようなものであり、冒涜というより懐かしさを感じるような気がする。そしてそれは、上記のシュミラクルとはいわば距離感がちがうというか、つまり、かつてどこかで誰かが勝手に作って流通してくるようなシュミラクルとは、イメージが生産されてそれがやってくるまでの距離感がちがうように思われるのだ。
裏返すと、シュミラクルの使い手にしばしば作家本人のそっくりさんが登場し、邪悪なことをして殺されたり復活したりと、好き勝手なことをしているのは、彼らが、いわば神話を含む歴史的なイメージのなかをウロウロしているからではないか。そこでのイメージは誰か他の人がつくったもので、匿名的で、そして使い手はそれをひっつかんで現実社会に嵌め込んでみたりしている。その操作の中では、自分自身が登場してみるのもアリかもしれない。
他方で、デビッドリンチにはそうした距離感をあまり感じないし、作家のそっくりさんもあまり登場しない気がするし、しても邪悪なことはしなさそうである。いいかえれば、自分の脳内のイメージをリアライズするのに夢中で、そこに自分自身が登場しなくても良い(なぜならリアライズされたイメージの全体が自分なのだから)というかんじがするのだ。


何が言いたいかというと、つまりデビッドリンチの作品が、いわゆる倒錯の分析にマッチするのは、そういうところではないか。一方で、ウェルズの作品等について、それらのイメージは、あまり根拠がないような気がする。それは個人的なオブセッションというよりは、どこかで見つけてきたものに過ぎないのではないか。
まあ、自分の顔面をドアップさせる場面を指して「倒錯してる」ということはできるかもしれないが、しかしそんなことなら最初から分かっているし、だからといって巨体のオッサンがヨコシマなことをして他殺される物語など、ある必要がないような気もする。というか、面白いポイントはそこじゃないだろうと思うわけである。いや、もちろんドアップは面白いし、オッサン物語も面白いのだが、それが本人の精神分析としてあるかというと、むしろ精神ではなく巨体の方が問題なのではと思うのだ。というか、巨体の問題というのが何なのか、よく分かっていないわけだが。困ったものである。



・・・とかいうことを、考えたり考えなかったりした。いま適当に色々挙げてみたが、つまり存在論とかシュミラクルとか歴史/神話性とか倒錯と巨体とか、どれもこれも議論するには手に余る主題である。あるいは、つまりヘンタイへの道のりは遠く険しいということなのかもしれないが、それが何を意味しているのかは、さっぱり分からぬ。
ということで、この話題、とりあえずこれにて中断。





2)どうでもいいことで長々書いてしまった。これを読んでおもしろがる人がいるのだろうか・・・ちなみに「適当すぎる」というツッコミは大いにあり得ると思うが、話はすでに中断したので、その意見はスルーである。



そういえば、「声」の話題を放置していた。ここで少し戻ろうかと思うのだが、もう疲れた。


ので、
つぎに続く。