c) d) ........ x)

みたび気が抜けている。というか抜いている。
とくに書くことを決めていない。



どうでもいいが、前回かいたアイデアについて全くコメントがない・・・思い付いたとき、ちょびっとだけ手ごたえみたいなのがあったのだが、どうなのだろうか。いったい何の手応えかという問題はあるが。このまま進めて大丈夫なのかな。
まあ別にアイデアと言うか妄想なのだが。アイデアと言うよりはコンセプトかしら。あるいはフォーマットか。
まあ、ではそういう路線で、ちびちびと妄想を続けていくことにしてみるかと言う今日この頃。
雨が降っております。



どうでもいいが「マワる××」が、もうスゴイことに。ちょっと前からいわゆる可能セカイらしいことが分かってきて、すこし落ち着いていた気がしたのだが、前回はそのうえにこれまで展開してきた各人物がそれぞれに行動する気配で、驚く。特にその焦点にサ×ン事件らしきものが位置付けられ、しかも問題となっているのが当事者というよりその子供の世代の問題と言うことで(しかも被害者となった子供の知り合いの子供と、加害者の実子とのあいだの問題)、さりげなくシリアス。前にふれた「カナリア」より、実はシリアスかもしれない。
とはいえ、実際セイ年の女の子がすっぽんぽんになったりするばかりなので、そのへんがなんとも言えないのだが。


ちなみに一つだけつけ加えると、前回「イケブクロにある手芸店」というのが出てきたが、おそらくこれはキnnカ堂のことで、そしてこれは現在の現実のイケブクロにおいては存在していない。つい1年ほど前になくなってしまった。さいきんたまにテレビで「ラクenタウン、近々オープン」というcmをみるが、これがkiンカ堂の跡地である。
こういうところにさりげなく現実が出てきているのが、さりげなくショックなところ。




どうでもいいが、めんどうくさい話題は面倒くさいうえに、気が抜けていて「てにをは」についても深くかんがえないまま文章を作っているので適当なのだが。なんかまた前衛家のつぶやきをみていると、疲れていそうである。しかもコトバの問題。それもオ×キョー派をめぐる問題。
そういえばちょうど一年くらい前にセンミン問題とかありましたことを思い出したりしましたが、そのときも前衛家は一人だけ頑張っていた。こういう話題になると、みんな(って誰か知らないが)ちょっと遠巻きか、あるいは一般論で笑止みたいなかんじになる・・・めんどうくさいからだな。たぶん。めんどうというのは、誰かを傷つけないで話をつくるのが難しいという点も含めてだけれども、そういうことをふくめて面倒くさい。


で、実は知り合いでもないし、この文章を読んでいないと明言されたのでどうでもいいわけだが、独り言的にコメントというか、ぜんぜん違うこと。ちなみにこれは結論ではないので、イチャモンつけられても「ははあ」とかしか言わないが。まあ感想である。


というかたぶん結論は分かっている・・・要はコトバをどう使うかと言う問題であって、コトバそのものが重要なのではおそらくない。もしくはそうして使われているコトバを、受け手がどう判断して受け止めるかということなのだろう。あらゆるレッテル貼りにともなう一般的な結論。コトバの使い方を間違えると暴力になります。以上、終了。
あるいは、同じことを、角度をかえればイヤミな言い方にもなるかもしれない。たとえばコトバを使いこなすことができるというのは、おそらく一般的にはアタマが良いとされていて、だからそういうレッテル的なコトバを沢山つかいこなしている人は、アタマが良いとされるかもしれない。で、それはそれでいいのだが、問題はそうした人が、実は誰かにコトバの暴力を使っていることに気づいておらず、とりわけ作り手の側のひとなどにたいして権威をあわせもった暴力を振るっていたりしているのに、それに気づかず、しかし暴力を振るっているのだからエラいことになっている場合がある。
この場合、実は暴力を降っている人はおそらくアタマが良くもないし、かつ、エラくもないのだが、実際の作品等に接しないで理解した感じになる向きにはそうした人がエライことにされてしまう。
なので、そうならないように気をつけたいものである。以上、終了。



・・・いや、そうではなかった。そういうことを言いたいのではなかった。ただこれ以上は具体論が必要だろう。
なので脱線すると、たとえば具体的には先日ユリ×カを買ってみたわけだが、なかなかそのあたりで難しさをかんじた。
具体的にどの文章がそれとは言わないが、なかにはたとえば、「××年代的なもの」というようなレッテルを設定して議論しているものがあった。たとえば80→90→00という形で「的なもの」が変化していると言う枠組みから攻めているものがある。で、最終的には扱っている対象を「ぜろ年代的なもの」の代表として落とし込む、というような論法。
で、それはそれでいいのだが、この場合、レッテルがある程度、雑になるのは否めないし、おそらくそれも論者は覚悟しているとおもうが、そういう印象を受ける。たとえば上の順に「エクレクティシズム(80)→オ×キョー(90)→ぜろ年代的」というような枠組みを設定したとして、それはそれで流行としてはいいのかもしれないが、こぼれ落ちるものが多すぎることは間違いがない。
具体的には、エクレクティシズムとしてジョンゾーンのネイキッドシティが挙げられるだろう。その場合、ジョンゾーンは必ずしもオ×キョーに組しなかったことはあるとおもうが、ここで問題なのは、その後もジョンゾーンは活動を続けており、しかもかなり広範囲の活動をしていて、かつ変化もしていることである。で、上記の枠組みでは、そうした問題はすべてカットされてしまうのだ。その場合、たとえば90年代以降のジョンゾーンに影響をうけた人の問題は、いったいどうなるのだろうか。ちなみにここでその活動範囲をレーベルの運営までふくめると、じつは一気に問題が複雑化するのだが、めんどうなのでそれは良いや。
で、ここからは、単なる茶飲み話をでないが、たとえばこうした枠組みを設定したとき、たとえばやくshimarueつこの音楽は、あるいはその歌と声のありようは、同誌のいくつかの文章でいわれているほどジョンゾーンと距離があるとは思われない。たとえばマサダにしても、実際のサックスの演奏を聞くと、かなりの種類の演奏法を駆使しながら、複雑なリズムにぴたりと音をあわせ、かつ一聴しただけでは違和感をかんじないような滑らかさをもっているように思われる。そもそもジョンゾーンがギャースカ言っているだけというとそうではなく、ニュースフォールルとか普通の演奏を超絶的な正確さでフォローしたものもあることはよく知られる。
で、そうしたことをかんがみたとき、そうした演奏上の性格は、おそらくやくshimarueつこの歌と声のありようと、遠いと言うよりはむしろ近しいとさえ言えるのではないか。多様な発声を駆使し、かつ正確なリズムで違和感を感じさせないひとつの歌声をつくりだす。その性格は同誌でくりかえし触れられている。とすると、それほど遠くはないのではないか。
そして、もしそうしたことが指摘できるなら、では最初の問題設定はどうなってしまうのか。


とか。
そういうことを考えた。正しいかどうかはよく知らない。たぶんレッテルには、こういう問題はつきもので、どちらが正しいとか間違っているとか言うこと自体に、あまり意味がないような気がする。重要なのは、レッテルを貼ることによって何が見えてくるかということで、結局はそのコトバをつかう人の身ぶりの問題ではないか。
あるいは、いわゆるオ×キョーにしても、いわゆるササキさんのいう議論からこぼれ落ちているものがたぶん沢山あって、レッテルよりもそっちの方が大事だし面白いような気がする。あまりいうと批判ぽいけど、たとえばササキさんはほとんどエステティックについては言及しないし、あと前もふれたが全体的に「純粋な××」を設定していくフシがあって、そこからたとえば大きく余白をとった構造の問題や、空間の揺らぎとかの問題は全部こぼれおちてしまう。
でももう、おそらくそうしたレッテルを貼らなくとも、なんというか沢山の音楽があるような気がするというか。というかひょっとしてそうしたレッテル貼り自体が、実は90年代の文化的な特徴だったのかもしれないけれど、これは上記の「××年代的」という議論と同じ問題を抱えてしまうため、よく知らない。
まあ、なんでもいいんじゃないかな。とかおもう。



なにか長々かいてしまった。気を抜いているのでそんなかんじで。


どんなかんじかは知らないのだが、
つづく。