e)f).......q)

誰が読んでいるのか知らないが、へんなタイトルになってしまった。何も考えていないとこうなるものである。
今日も気を抜いている。



といいつつ、昨日の文章にすこし修正。なんというか誤字脱字が多い(セイネン→ミセイネン、降る→振るう、等)が、そういうことではない。


ついさっき、シンチョーのササキさんの連載をたたたたちよみ。で、昨日の文章はすこし書き過ぎたらしいことが判明。ちょっと攻撃的すぎたかもしれない。といっても、発売日が今日だから、連載の内容を昨日にわかるはずもないのだが。言い過ぎなら陳謝。
いいかえれば、かなり内容的にカブっているところ有り。かつ難しい問題を扱っている・・・ような気がする。たちよみなので、コメント自体はしないが。もしオ×キョーについて振り返ったり考えたりする向きには、まちがいなく必読。
あと、その連載の( )のなかの文章を読んでやや慄然としたが、それについては、やはりエステティックの問題が重要なのかもしれないと思った。オ×キョーではなく、問題としてのエステティック。たぶんそのあたり、まだあまり扱ってないと思うし。あるいは、そういうことではやはりフォーラムに来るべきだったと思うというか、そういう諦念とは無縁のものがあったような気がしたので。会ったことがないのでよく知らないけど。


つけくわえると、ここでエステティックとはセンミンの問題のことである・・・あまり定義できないので曖昧だし、気が抜けているので難しいのだが、やはりエステティックと言うこと自体の重要性をさいきん思う。
ちなみに、人によっては「そんなところに閉じこもっていては、社会性がない」と言う人もいるだろう。しかしそうではない気もする。というかセンミン問題はそういうヤリトリだったのではないかと、事後的に思ったりする。
つまり、エステティックを追求する人たちが、なぜか自分たちをセンミンと言わねばならぬ社会に、いまのわたしたちはいるのだというと、わかるだろうか。いまの世の中、エステティックを追求すると、なぜかマイノリティになってしまうのである・・・これはなんというか、すごい世の中かもしれぬ。これほどチマタには音楽が溢れているというのに。一体どういうことか。それは、もうそれ自体である種の社会性として見ることもできるかもしれぬ。できないかもしれぬ。これがエステティックと社会の観点からみたセンミン問題かも。
ぬぬ。




ちなみに、他にもやくしmarueつこの声について触れたが、べつにマサダと「同じ」とか「似ている」とか書いているわけではない、念のため・・・というか、違うことは最初から分かっている、別にユダヤ風に歌っているわけでもなし。
ただ、そのうえで、遠さよりも近さから見た方が面白いような気もするというかなんというか。あと、この人たぶんマサダ知っているんじゃないかと言うか、やくしmarueつこがマサダを聞きこんだことがあると言われても個人的にはまったく驚かないというか。そういうことの方が興味がある・・・が、そういうのは外野で推理するより本人に直接訊いたほうが早いかもしれない・・・どうやって訊けばいいのかはよく知らないが。



どうでもいいけど、それでいうと、マサダについてとかの分析って、ニホンゴでほとんどされてなかったりするような気がするが、気のせいだろうか・・・良く知らないけど、あれって単にユダヤメロディーを楽しく吹いているだけじゃなくて、カルテットという形式のなかで、アレンジをあれこれ組み換えて歴史上の演奏をパクりながら、実は単純なフォーマットの中で色んな音楽をやっているような気がするのだが、どうなのだろう。まあ、見た目は違うけど、中身は歴史の組み合わせというのは、それこそpostモダンではないかと言われればそうかもしれないけど、だからどうしたのか。
というか、そういうのをひっくるめて楽しくやっているというか、そういう気がするのだが、ちがうのかしら。とか思うのだが、誰か教えてほしいところである。
とか。




とかなんとかで、別にこの問題で大騒ぎはなさそうな気配。なので、まあいいかという気分である。あるいは、大騒ぎしてもいいけど、ケンカするのはまだ早いと言うか、そんな気分であった。あと別に反省会を止めようとしているわけではないので、そのへんは念のため。
とはいえ、たぶん上記の文章は必読の気配。というか、この連載、だんだんスゴい文章になってきた気がするが、エラそうなのでここで終了。




うぬ。誰が読んでいるのか知らないので、ひとり組み手をしているような感じになってしまった。
が、そんなかんじで、
つづく。