op......... cit.)

なかなかヒンヤリしてきた今日この頃である。というか今日は。ひんやりしている。タイトルにとくに意味はない。
今日も気を抜いている。



どうでもいいが、ここのところ思いきり気を抜いて文章を作っており、文体はふにゃふにゃだが、実はそれなりに緊迫したネタを扱ってみた。まあ、別に目立ちたいわけでなし、なんとなく見つけた人だけが読めば良いような文章だと思うので、そういう感じで適当につくっているわけだが。一方で、ひょっとしてたまたま見つけた誰かに怒られたりするんじゃないかと若干ひやひやしてみたが、そういうことは今のところなかった・・・もちろん別に怒られたいわけではないので、それはそれでいいのだが。
つまり何が言いたいかというと、適当につくっているし、自分の文章が正しいと思っているわけでもないが、そのうえである程度、ムズいネタを扱っていることは分かっていると言うことである。というか、これを書いてもそれ自体に意味はないけど。



ちなみに、こういうことを考えると、なかなか書きにくいネタというのは実はけっこう沢山ある。
たとえば、前にロブグリエの小説について、視覚と音響の空間における分離/並行関係みたいなことを書いた。で、その延長線として、たとえばヘアスタの人の小説とかについてもアイデアがあったりする。
ちょっとだけメモ。



で、その際、アイデアは一つである。つまりそこでは、視覚と音響だけでなく、どうやら「感情」までが遊離してアチコチを移動しているというイメージである。ここから攻めてみる。


どういうことかと言うと。たとえばAと言う人がある感情を抱いたとして、それがまったく別のシーンのBという人に突然、移動してくる。だから、それまで普通のオッサンだったBの人が、いきなり激昂して破壊行為に出たりとか。つまりそうやって、作品内をある感情が移動している、あるいはいくつもの感情が、並列的に移動しているのではないか。そういう読み方。
念のためつけくわえれば、ここでは感情だけでなく、音響面や、さまざまな小道具についても、シーンを跨いでどんどん移動している。そういうなかで、感情も移動しているのではないかということである。いいかえれば登場人物とその感情が分離されるかたちで作品がつくられているとも言えるかもしれない。
なお、この場合、もとのAという人が破壊行為をしたかどうかは、あまり重要ではない。ただとりあえず激昂や激怒など、何かの感情を引き起こしたことが重要である。そして、そうして描かれた一つの感情が、小説内を通じて次々に移動していく。そういうイメージ、あるいはアイデア


こうしてみると、突然におこる惨劇や、突発的な感情の発露など、小説でみられる異様な展開は、けっこう理解できるような気がする。ちなみに、これは面白いかつまらないかとか、そういう話ではなくて、そういう形になっているのではないかと言うことである。
あるいは、新しいか否かでもない。なんかこういう作品は、ひょっとしたら低予算映画でヘタな演出の作品等に、しょっちゅう見られるような気もする(あるシーンで役者がやる気がなく、別のシーンで意味不明に興奮しているとか)。あるいは、見方によっては、ロブグリエとかの延長上とかに置くこともできるのかもしれない。
だからどうしたといわれると、別にどうもしないわけだが。とりあえずそんなかんじである。



で、ひとつだけつけ加えると、こういう風に見た場合、いわゆる文章と感情の関係が問題になるかもしれない。つまり普通は、文章と言うのは「感情を適切に表現するものだ」というように捉えられる。あるいは、そういうのが高く評価される。あるいは物語や小説というのは、そうした配列や構成が適切におこなわれているといえるかもしれない。少なくともそういうのが一般的だろう。
が、この人はどうもそういう風に捉えていない。もしくは、自分の使っている文章がそういうものだとは思っていないらしい。実際、作中でもそうしたことは言われていて、そこでいわれるのは「雑草のような文」ということだ。つまり雑草は「感情を持たない」が、「ただあるだけ」で、そしてそのような文章をつくるのだということが、かなりはっきりと書かれている。


だとすると、そのような文章でできている小説だと理解すれば、上記のような感情の移動も分かるような気がする。つまり、小説は別に感情をただしく表現するものである必要はない。だとしたら、感情があちこち移動したって、何の問題があるだろうか。
言い換えれば、つまりこれは、雑草の言語で出来た小説といってもいいかもしれない。そんなものがあったとしたら、それはそれで面白そうだとおもうのだが、どうなのだろう。



とか。このへんを取っ掛かりに、さらに議論を進めてみるのも面白いかもしれない、個人的にだが。
たとえばそこでは、雑草のコトバにたいして、「機械のコトバ」というものとの関係もあるかもしれない。とくに「点滅」という作品では、機械が物語をかたろうとしていて、ではそこでどのような関係が見られるのか。
とか。なんかいろいろ。まだアイデア段階なので、もうちょっと練る必要がありそうだけど。
そんなかんじ。



で、ただ一つだけよくわからないのは、作者ではなくて議論の方を見ていくと、どうもこういう作品を扱うには、よくわからないが「小説」を「擁護」しないといけないらしい。なぜかわからないが、そうらしいのである。
で、それはそれでいいのだが、問題なのは、個人的には上のような見方をしていくと、あんまり擁護するとかしないとか、あるいは面白いかつまらないかとか、あんまりどうでもいいような気がしているのだった。あと、こういう観点からすると、「書きたくないということについて書く」というテーマは、どちらかというとあまり重要ではない。ちょっとうまく言えないけど。
で、しかし何かそういうことを書くだけでよく知らない人に怒られたりしそうである。それは単にあまりに面倒・・・そんなかんじ。



というわけで、これはペンディングである。あるいは、ここに書いていることは、書いている本人も本当かどうか分かっていない。ちなみにさらにいえば気を抜いている。


なので、気が向いたら適当に進めることにする。まあ、進むと言っても、どこに進んでいるかは不明であるが。
そんな今日この頃。





ぬぬ。本当は「一人称の音楽」の妄想をしようと思っていたのだが、すっかり長くなってしまった。それにいいかげん空腹である。アボカドなど食べたい。あとクレープとか。


とか。そんなかんじで、
つづく。