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どうでもいいが、冬になった。なかなかに寒い。今日は珍しくお昼の合間にここで文章をつくる。
外が明るい。いつものことだが。


そんな今日この頃。



誰が読んでいるのかわからないが、昨日は、こっそりオートモさんのタワレ×でのトークなどに行く。パッと行ってパッと帰ってみた。よく知らないが立っていたところがカン流の特別コーナーで、よく知らない人の写真を沢山ながめる。あとたぶんだが、キャロサ×プの人らしい人がすぐ側をウロウロされていて、なんかとにかく怖い。


で、トーク。このところフkushiマのことをここではほとんど書いていないが、関心がないわけではない。あるいは、ないはずがない。イソベさんの本も、突然でたので驚いたが、すぐその日に買って読み、よくわからないが三回ほど読み直してみた。
とりあえずの感想としては、色々な意見があるかもしれないが、たぶん誰かがやる(べき)ことをイソベさんがやったのではないか、と。客の観点から、フェスをみて、記録する。簡単なようで、たぶん難しいことをやっているという理解。



で、トーク。オートモさんが怖い・・・プロレスラーみたいであった。話題もなかなか難しい論点あり。「ギロン」や「ヒハン」をめぐる議論は、それ自体が結構難しい・・・「ヒハンとはこういうものだ」と言うこと自体が、ある種のヒハンになってしまうというトートロジーに陥る気がする。でも、それはそんな重要ではないかも。


もう少し具体的な論点を挙げてみる。一応読んだので挙げて見ると、個人的に注目されたのは、フェスについて最終的に「フkushiマ・ナショナリsmに舵を切った」と書いてあったこと。ちょっと正確ではないが、そういう感想があったはずである。これについて、実は読んでいて意味がよくわからなかった。別の箇所では同時多発の重要性も指摘されているのだから、単純に考えると矛盾しているように思う。
でも興味があるのはそこではなくて、そうした表現が、著者が積極的にそう理解しようとしたのか、あるいは客観的にそう見えたのか、そこがちょっと分からない点である。あるいは、そうした言い方に対して、オートモさんがどう思うのか。そのあたりは、ひとつの論点になりそうな気もするが、そうでないかもしれぬ。ただ、全体的な印象にも関わるので、ちょっと考えてみる点。


あと別の角度から、この本がオートモ論だという議論があり、そうかもしれないのだが、だとするとやはりもっと広い活動の中での位置付けが気になる。
たとえば、終ったあとの会見の写真が出ているが、まじまじと見ていたらそこでオートモさんが着ているのは「アンサンブルズ09」のTシャツだった。つまり「装置」。これについて書いていたのはちょうど1年前である。もう三年くらい前の気がするが、それはどうでもいい。
そうではなくて、もしある程度Tシャツにメッセージ性があるならば(そして他のライブの写真等を見るとかなり着替えているので、あってもおかしくないと思うわけだが)、つまりこの企画はアンサンブルズの一つとしての意味合いを持つと理解できる。実際、1年前に書いたことに限らなくても、「装置」展が手作りで、入場料が安価で、かつ様々な人が入り乱れた特殊ライブを連発していたことは、ブログを見れば書いてあったはずだ。とすれば、そうした延長線上に無料の手作りフェスを置いて考えると言うことも、おそらくアリだとおもう。


あるいは、もしこの観点から進めれば、著書でも書かれていたように、あらためて「空間」と「社会性」の問題がでてくるような気がする。オートモさんの活動の中では、空間をもちいたアンサンブルズは、おそらくそれ自体がある種の社会性を担っているのではなかったか。
だとすれば、この企画をそうしたレベルにおいても捉えることができるような気もするわけである。いいかえれば、音楽と社会の関係の問題だったり、そうした観点からの組織論であったり。それは、ひょっとすると現在進行形のダブルオーケストラにも繋がる問題ではないか。
とか。


例によって、適当だが、こういうオートモ論はできないだろうか。
とか。



うーむ、他にもちょっと脱線すると「空間」の問題について、前からあれこれ思うことがあるのだが、なかなか書くのが難しいのであった。これについてはまた今度。



どうでもいいが、適当に4日の朗読ギグに行こうと考える・・・ひょっとしてたぶん感想は書かないかもしれないが。単に疲れているので。遊びに行くかんじである。



そんなかんじで。
外が明るいので文章が止まらないのであった。雨は止んだらしい。



とかなんとかで、とりあえず、
つづく。