between before and after, and in-between

どうでもいいが、年末である。・・・なんだかあちこちでイベントがあって、楽しそうだ。あと全然関係のない前衛家のパーティーとか、一体なんなんだ・・・わけわからん。


とかなんとか。そんなかんじの年末の今日この頃。



唐突だが、大音量の音楽について。妄想のつづき。
1)非常にどうでも良いのだが、この問題というかノイズの話を詰めていくと、なぜかどこかシリアスになってしまうらしいことに気づいた。もちろん別にシリアスであっても構わないのだが、この文章の作り手がそれにふさわしいかどうかという点に疑問があるわけである。もしくは、もっと沢山ノイズを聴いていて、かつシリアスな問題を抱えている人の議論をこそ聞きたいというのが、正確かもしれない。
どちらかというとここでの文章は、なんとなく関心を持っている人間が、ふととりあえずの問題を指摘してみた、というくらいのスタンスである。というか、それくらいがちょうど良い。あまり踏み込まないが、たとえばここで想定しているノイズには、すでに一度触れたようにジャンルとしてのノイズから、フリージャズやロックなど、色々な領域の作品が含まれる。具体的に言えばベルベッツからタカヤナギまでが射程にはいる。で、そうした作品について論じるには、すこし勉強が足りないような気がするわけだ。


ひとつだけ付け加えれば、ここでは「大音量」という点に特化して進めているが、これはかなり勝手な切り口である。たとえば、とくにここではある種のカオスというかカオティックな音楽としての側面を、すべて切り捨てている。裏返すと、そうしたカオスの側面を切り捨てることで「大音量の音楽」を取りだしてみるとどうなるか、という方向で進んでいるといえる。かもしれない。なので「音量の音楽」みたいなことになる、のだろう。
ちなみに、なぜ音量とカオスを分けるかといえば、一つには単なる思いつきだが、もう一つには、つまりはカオティックな要素は必ずしも「大音量」でなくとも成立するらしいという見込みによっている。実際、微弱音によっても豊かなカオスを生み出すことができるというのは、たぶんこの文章を読んでいるひとは知っているはずである。あるいはオートモさんのノイズ論は、そうした大音量の要素を切り離すことによって成立しているように思えなくもないし、そこでは「情報の複雑さ」のようなベクトルから多様なノイズが引き出されてくるようにも思われる。このへんは、また色々な議論がありうるかもしれない。けど、そのへんは誰かに任せた。



なお、個人的には、ノイズについては上記の「大音量」と「カオス」にくわえて、もう一つの要素を思いつく。それは、要はビジュアル面での特異さみたいなもの。たとえばすっぽんぽんになるとか、奇怪なイメージのジャケットを付すとか、そうしたことによる視覚的なイメージの側面。これはこれとして、かなり重要そうである。
ついでにいうと、たまにヒヒョーやヒョーロンとかで、「ノイズ」と聞くとなんでもかんでも「規範に対する侵犯」みたいなことを言い出す文章を見かけるけれど、それはおそらく、そうしたイメージによっているように思われる。裏を返せば、なので個人的にはノイズだからといってイコール侵犯とか、そういうことは必ずしも考えない。もちろんそういうのもあるだろうけれど、それだけではないかもしれない、という感じ。というか、それだけを考えていたら、よのなか聴くことのできない音楽が沢山あり過ぎる。


いずれにしても、つまりこのような3つくらいの構造に分解してみると、ノイズにもう少し接近できるような気がするわけだ。繰り返しだが、こうした考えが正しいのかどうかは、かなり分からない。ひょっとすると全然違うかもしれない。他方で、こうした観点からアプローチしてみると、ではタカヤナギの音楽というのはどうだったのだろうかということも考えることができるかもしれないし、ただ怒られるだけかもしれない。そのへんもなかなかに無知である。


ただ一つだけ、前回の繰り返しだが、議論はかなり繊細にして複雑そうである。つまりたとえばいわゆる思想性だけでみていくと、個人の考えは分かる一方で、ノイズという音楽がもつ多様な広がりが切り捨てられてしまうような気がする。そのどちらを選ぶかは論じる人次第だろうけれど、あくまで個人的な感想として、これまでのニホンゴでの文章は、思想性にかなり傾いていたような気がしなくもない。別のいい方をすれば、個々人に着目して議論が立てられているようにみえる、かもしれない。
で、それはそれでいいのだが、そうするとたとえば音をつうじた興味関心でつながる多様性のようなものはどうなるのかとふとおもったりするわけだ。とくに、ジャパニーズなノイズと海外というかジャポンでない地域との交流や影響関係などはぜんぶ捨象されてしまう。もちろんジャポン内部での相互影響もみえない。ように思う。
というわけで、そのへんが問題かも。そうでないかも。ちなみにエイゴでの議論を全然チェックしていないので、その意味でもこの文章の作り手は勉強不足である。そのあたり、乱暴承知で無知をご容赦。


などなど。こんな感じで、シリアスになってしまうのであった。困ってしまうので、あとは誰かに任せる。
どうでもいいけど、我ながらなぜいきなりこのあたりを話題にし始めたのか、謎である。・・・なんとなくこのあたりに豊かな何かが眠っているような気がしたのか、あるいは単に興味なのか、もしくはこれを書いている際の状況を反映しているのか。わからん。というか、どうでもいい。



2)というわけで、下らない妄想に戻りたいところだ。大音量の音楽。
ちなみに、もうすでに、かなりの程度、かたちができつつある。というか、もうほとんど演奏可能である。あとは、必要な技術と、手伝ってくれる演奏者を捜すだけ・・・だが、その前にもう少し、妄想をつめてみよう。


もうすでに書いたが、ここで妄想しているのは、要するに特殊ジャズに、爆音サンプリングをかぶせるというものであった。それがもうひたすら大音量。ジェット機のエンジンみたいなものを被せたいわけである。もう何も聞こえない、というか、それ自体もはっきり聞こえないくらいの大音量をかぶせる。そういうもの。
で、実のところ、ここで興味があるのは、そうした大音量そのものではない。というか、だったらわざわざ特殊ジャズなど考える必要はない。
そうではなくて、ここで考えるのは、そうした大音量と、特殊ジャズ的な器楽演奏が「かぶさっている」状態である。いいかえれば、たしかに爆音で音が鳴っているのだが、そのなかで耳を澄ますと「うっすら何かが聴こえる」というわけだ。そうした、大小の音が重なっている状態にこそ興味がある。というか、そういうノイズをリアライズしてみたいわけである。


ちなみに、なぜこうしたノイズを考えているのか、理由は定かでない・・・ただ、最初に思いついたのが、爆音のドローンが持続しているなかで、それを頑張って聴いていると、なかから奇妙な異音がきこえる、というようなものである。つまりノイズの中にノイズがある、というような感じだろうか。もしくは、大音量と器楽音があわさった中間領域かもしれない。そこに焦点をあわせる。
だから、聴く側としては、単に爆音がなっているわけではないことが前提である。つまり、一方的に爆音を鳴らされて、それを受け取ると言うだけではない。耳を圧する大音量のなかで、さらに重ね合わされている別の音を探していかなければならない。というか、その重ねられた音を聞き取らなければ、この音楽は聴いたことにはならない。そうした設定である。
だから重ね合わせる器楽音も必要なわけだが、それについては良く分からなかったので、とりあえずここでは特殊ジャズを妄想してみたわけである。テーマがナンバーピースとか。アドリブが短く終わりまくるとか。それはそれで、アリなような気もするが、どうなのだろう。
いずれにしても、そんな音楽。大音量な。ちょっとだけヘンタイ成分が混じっている気もするが、それはどちらでもよい。そんな感じであった。




・・・
最後に、もうひとつだけ付け加える。こうして長々と音楽について書いているが、それはある程度、根拠がある・・・よくわからないが、これを思いついたとき、一つだけ確かだったのは、日常の感覚が大きく変わったことである。これまで、あれこれと書いてきたが、ある時点で大きく変わったとおもわれた。つまり、不確実な状態が日常化したような感覚である。
これは人によって違うだろうし、気分によってもちがうかもしれない。だからこれはあくまで個人的なことである。そのうえで、しかし、どうやら世界のあちこちで、個人の力をこえた形での不確実さがほぼ常態化したようにおもわれる。いいかえれば、もはやどこも安全ではない、というような感覚。またそれは、ある程度つづくような感覚でもある。
それと同時に、これまでやたらと音楽について書いてきた。さらに妄想までしてみた。随分とたくさんの問題を、短期間のうちに提出したものだと思ったりもする。そのどれが正しくて、どれが間違っているのか、いまだにわからない。その多くは答えを出してさえいない。それはそれで、仕方がない。とりあえずできる範囲で、とくに意味の分からぬ問題についての文章をつくってきた。
そうしたことを考えると、この延長上にあるのは、まもなく文章をつくりはじめた時期から年を越すと言うことである。あるいは、言い換えればもう少しすれば、1年を迎えることになるだろう。そうすると、問題になることが一つある。それは何か。


それは、レクイエムの問題である。いや、レクイエムと限定する必要はないかもしれない。ただ、誰かへの音楽、誰かに贈る、誰かに捧げる、そうした音楽である。
別にそうした音楽はいらない、という意見もあるだろう。そうした音楽はつくれない、という意見もあるとおもう。けれど、1年を迎えるとき、誰かに捧げたり贈ったりするための音楽が、まったくないということは、個人的には信じられない。あるいは、そうしたものはたとえば良く知らないコッカの人や良く知らないがコンテンツ産業などに任せておけばよいと言うのだろうか。それはそれでいいし、それはそれなりの必然性と需要もあると思うけれど、だからといって、個人的にそれを考えなくて良いということにはならないはずである。もちろん、考えなければならないというわけでもない。どちらでもよい。
ただし、その日付までに、実際のところはあと2ヶ月ほどしかないことは、まちがいない。そのことを、誰か話題にしているのだろうか。



いや、はっきりいって話題などどうでもよい。これはあくまで個人的な問題である。
誰が読んでいるのか知らないが、もしあなたがこの文章を3月の最初の2週間から読んでいるなら、知っているはずである。この文章を連続してつくりはじめたとき、この作り手は、その相手を、いまは読めない人に定めた。その人たちは、ひょっとしたら以前にここの文章を読んだことがあるかもしれず、しかし諸々の被害によって、電子メディアから切り離された、そうしたあなた方に向けてつくりはじめた。誰もがマジメな話題しかしなくなったときに、どこかで誰かが、少しでもいいから下らないしどうでもいいような議論を進めておくのが、ここでの文章を読んでいたひとに個人的にできることだと思われた。
それが正しかったのかどうか知らない。そのなかに、今これを読んでいるあなたが入っているのかも知らない。


ただ、だから今は、ここの文章を読んだことがあって、けれど今はこの文章を読めない人に向けて、何かを捧げようと思う。だからといって、個人的にできることは、何もない。残念だけど、音楽を作ることもできない。演奏することも、それを公開することもできない。できることは、ただ文章を作ることだけで、それは結局のところ、何も変わっていない。


だから、ここで、この「大音量の音楽」を遺しておく。なんとも下らない、役に立たない音楽。作品ですらない。単なる妄想である。ただ、ちょっと変わっているかもしれない。ちょっと笑えるかも。ちょっとヘンタイ成分も混じっている。だからこれは、あくまで個人的なもの。届くかどうか知らない、意味のないメッセージ。


たまには、そういうのもいいだろう。あなたが誰なのか知らないけれど、どうやらここの文章は、まだ続いている。ちょっとした議論も、まだ続けている。よくわからない変な音楽も、まだ世の中たくさん続いているみたいだ。
それはなんというか、素敵なことだと思う。あるいは、単に困ったことかもしれないけれど。今年は、本当によく困った。色んなことがあったし。


だから、あなたが誰か知らないし、知り合いになれたかどうかも知らないけれど、あなたがいなくなって少し寂しい。ただの客として、よくしらない客同士として。できることは、せいぜいこれくらいだ。
これは、そうしたちょっとした挨拶。




あと最後に。一方で、色々書いてみたけれど、どうやらどうでもいい問題が、まだいくつもあるらしい。というか、そういう問題を追っかけてみたら、まだ沢山よくわからないことがあるらしい。それ自体、困ったことかもしれない。まだ困ったことが、色々あるかもしれない。困ったものである。
ただ、わかりきった答えがなかなか見つけられないことは確からしい。そんな次第。いま、まだ、そこにいる。


とかなんとか。とりあえず、そういうところ。



だから、つまり、そんなわけで。ただひとつ、わかることは、


つぎにつづく。