補・補・2.012)

どうでもいいが、気が抜けている。寒いせいだろうか。空気が乾いているせいだろうか。
あまり関係がない気もするが、どちらでもよい。どちらかといえば、なぜか街が混んでいる模様でそれについて知りたいところだが、それについてはよく知らないのであった。


そんな今日この頃。



誰が読んでいるのか知らないが、今月のメモ・・・とりあえず、またもう一度くらいササキさんの授業にモグろうかと計画中。時間と場所を完全に忘却したが、木曜日だったのではないだろうか。今度こそW学派について訊いてみたい次第。
ちなみにどれかお勧めを訊ねるというと、最近出た「ミチとのソーグー」の内容と矛盾するような気もするが、あまりそういうことは考えていない。単に、お勧めを訊ねてみたいだけである、誰も教えてくれないから。もしくは耳学問である。
へえ、とか、はあ、とか言ってみたい。さいきんしばしば情報はネットに全部ある、というような言論を見るけど、個人的にはそれはかなり間違いな気がする。たとえばW学派のおすすめとかについて・・・
とかなんとか。



あとぼんやりと、何人かの方のつぶやきを拝見。全然存じないのでここに書くのはためらわれるが、アーストワイルの方のつぶやきが注目される・・・うまくいえないが、海外からの目線と国内の問題点が交差しているようなあり方のよう。
前から書いているけれど、個人的な関心として、とくにゲンパツなどについて、ニホンが海外からどのように見えているか、ということが分かっていない。そしてそれに興味がある。というか、興味があるというと語弊があるかもしれないけれど、とても重要な問題ではないかという気がする。
そもそもどのように見えているのだろうか・・・やはりちょっとした地獄か。あるいは、誰もが平然としている姿は、それはそれで異様なのか。話題が限定されていることは、問題の等閑視のようにみえるのだろうか。
ちなみに個人的には、そのどれもが実態とはズレていると思うけれど(つまり平然としていないし、無視もしていない)、そのように見えても不思議ではない状態であるような気もする。そして、このあたりは全然わからないのであった。
そんな何もわかっていない昨今。




のんびりした感想のつづきと終わり。ゲ正月について。
1)どうでもいいが、前回の感想を書いたあと、コアオブベルズのページを拝見とかしてみた。よくわからないが、なんか色んな人が参加したりコメントしたりしていてオノノく。
個人的には、予備知識はゲスな日記か、niseニッキの人の日記だけだったので、なんだかけっこう話題かつ注目の集団だったのかもしれないとか思ったり。感想が適当すぎたら困ったものであるが、面倒なのでもういいや。


ちなみに、自分がつくった文章について、よくわからない勢いで記号がどうこうとか書いてみたが、ひょっとしたらやはりその解釈はアリかも、とか思い直す。ただ少しゲス日記にひっぱられた解釈ではあるかもしれない。
というより、変な言い方だが、自分がこれほど記号について、適当さはわかったうえだが、ダラダラと文章をつくれることに驚き。困ったものである。とはいえ、いままであまり真剣に考えたことのない問題であった・・・むずかしい。


というわけで、もう少しだけメモしてみる。
と、とりあえずここでは記号を、表現と内容にわけてみたが、その書きかたが適切であったかもわからない。そのうえでもう少し進めてみると、たとえばコンテキストの問題などもありそうである。いいかえれば、記号ないしは言語の表記−意味と、そのコンテキストの関係について云々みたいな問題。
実はなんだかゲスな日記でそういう問題が書かれている・・・その関心もいまいち分かっていないが、適当にそれについて。


・・・だが、とりあえず難しすぎるので、よくわからないが、とりあえず知ったかぶりをしてみる。
と、こうした話題で思い出されるのは、デrriダという人が書いた「署名・デキゴト・コンテキスト」というテキストとかである。あまり覚えていないが、そこで言っていることの一つが、書かれた記号はコンテクストから断絶される、というようなことだった気がする。たしかいわゆるスピーチアクト理論への反論としてそんなことを言っていた。翻ってこれは、書かれた記号の問題つまりエクリチュールが本来的に持っている「孤児性」という論点に繋がる。らしい。気のせいかもしれないが。
いいかえれば、書かれた記号は、かならずしもコンテキストに寄るわけではなく、とくに決定されることのないまま「漂流する」というような言い方になるようである。これをさらに思い込みで言い直すと、つまり書かれた記号は、書かれた時点で状況から切り離されて、その価値や可能性を遊離したまま漂流していくということになるのだろうか。あるいはその意味は、非決定のままに置かれる、ということでいいのかしら。
とりあえず要するに、こんなかたちで、書かれた記号とコンテキストの関係(ないし断絶)と言う問題は、すでに何処かで扱われているらしい。



で、つまり何が言いたいかというと。あまりよく分かっていないが、とりあえずエクリチュールと言うのはコンテキストから切り離されていく性格があるらしい。よく知らないが、そう言われれば、そういう気がしなくもない。よく理解できていないが、そういうことにしておこう。
で、だとすると、ここで興味があるのは、それが「書かれた」記号に限定されるかどうかである。たとえば、演劇ではどうなのだろう。たとえば舞台上でさらっと「ここは海の底です」と言ってみるとして、その「海の底」というものの意味内容は、一体どうなるのだろうか。
誰かが設定した「海」なのだろうか。もしくは、かならずしも状況によらない、非決定のままなのかしら。よくわからない。


あるいは、さらにいうと「うた」とかの場合はどうなるのだろうか。つまりある歌詞を、メロディに乗せて歌うわけである。そのとき「わたし」とか「ぼく」とか「あなた」とか言ったりするだろう。それは発話された記号である、といってもいい気がする。
そのとき、ではそうした記号の内容は、いったいどのように規定されているのだろうか。そのへんが、よくわからない。
別の言い方をすると、そもそも「うた」の内容は、フィクションなのだろうか、それとも生と言うか、本人のメッセージなのだろうか。歌われるときの「わたし」というのは、歌手のことを指しているのか、それとも、そうでない架空の誰かなのだろうか。まったくわからん。



ちなみに、500%大雑把に書いてみると、もしフィクションだとしたら、つまり「ふりをしている」という風に理解できるのかもしれない。要するに、その歌手をとりまくコンテキストから想定されるあるキャラクターがおり、歌手はそのキャラクターのふりをして、「わたし」とか「あなた」とか言っている、というような。間違っているかもしれないが、大雑把なので。
もしくは、もうひとつ、全然別に、「誰でもありうる」という解釈もあるような気がする。つまりそれは誰かわからない、コンテキストに拘束されない。歌われた瞬間に、聴き手側の解釈に委ねられる・・・というような。
言い換えると、つまり聴く側が積極的にその意味内容を操作・設定している、のかもしれない。歌われる記号を、ときに自分にあてはめ、ときに誰かにあてはめ、ときにフィクションとして享受する、というような。しばしば、「うた」が広く多くの人に受けいられたりする側面が指摘されるけれど、それはそうした性格によっているかも。いないかも。というか、よく知らない。



とかなんとか。適当すぎて困ったものである。なんか学生のレポートみたいになってしまったが、まあよかろう。というか、こういう研究というのは、あるのかしら。これもササキさんに訊ねてみようかしら。カエルさんの方がよいのかしら。どちらの方も知りあいでは全くないけど・・・そもそもそれほど関心があるわけではない気もするが、気になるといえば気になるかも。
まとめると、歌われる際の記号の内容が、どういうふうに文脈との関連で規定されているのか、あるいはいないのか、ということかしら。難しすぎて、もっとちんたら考えたり考えなかったりしたい気分。



というか、つまり言いたいのは、コアオブベルズのパフォーマンスが、そういう形でコンテキストから遊離したり、指示内容が切り替えられたり漂流しているようにみえた、ということである。もしくはゲス日記がそういうことを書いているように読めた、ということかもしれない。



2)
なんだか話が全然べつの話題になってしまった。もう終わりだからまあいいか。
ちなみに最後にひとつだけ。ここまで読んでも、おそらくゲ正月がどういうものだったのか、分かる人はほとんどいないだろう。そこで最後に簡単に説明を試みておく。


単純に言えば、どこか知らぬ場所に「たくちゃん」がやっている飲み屋があって、おおみそかの夜、よくしらない出自の5人がなんとなくやって来てしまって、全員で雑煮をたべ、新年を祝う、というものであった。ときおりテレビ番組が始まったり、雑煮からのメッセージがあったりしたが、とりあえずは今年いちねんが素敵ないちねんでありますように、と言われた。本当にそう思う。


そんなかんじである。これ以上、特に書くことがない。




などなど。よくわからないが完全にメモ状態になってしまった。なお、この話題については、明日になったらすべて忘却したい次第である。いったい誰が忘却するのかについては、これを読んでいるあなたに委ねたいけれども。あなたが誰かも知らないわけだが、だからどうしたわけでもあるまい。



とかなんとかで、つまるところ要するに、
つづく。