はじめのつづき

どうでもいいのだが、蒸し暑い今日この頃である。というか雨であった。晴れているときもあった。だからどうしたといえば、そんなかんじ。


とかいう今日この頃。




というわけで。
とりあえず「ソッキョーのカイタイ」の前半部分を再読してみた。どうでもいいけど、非常に暗い・・・行き詰まっているのか先へ行こうとしているのか、そのどちらなのか中間なのか、そのへんも分からないような感じで、何かが辛い。


という感想。
あとはよく分からない点がいくつか。
ので、別にケンカを売るわけでなく、メモ的に以下ちょこっと。なにか去年の「最初の2週間」という時期に書いた気もするが、あらためて箇条書き的に、とりあえずやっておこうかしらという気分で。さっそくやってみる。



で、ひとつ。実はこの前半部分の全体の枠組みがよくわからず。単に勉強不足なのかもしれないけれど、ソッキョーと言って、どうもそれを全てフリーインプロに限定してギロンが進められている。のだが、インプロそのものは、たぶん一般に、かならずしもフリーだけではない気もする。ジヤズもそうだし、もっと色々。そのへん、あまり分からず。
ついでに、全体の枠組みが、そのフリーインプロから発しているので、理論的にトートロジーみたいのがあらかじめ組んであって、全部の論理がそこに回収されてしまうような構成になっている。ように読める。
単純に言うと、フリーインプロは、一切のイディオムを無視した反復ゼロの演奏を目指すわけだが、実はそのような演奏を何度も試みると、そのような演奏自体がある種の反復になってしまう。ので、これは論理的に煮詰まる。という枠組みが設定されているようである。
で、この枠組みに対してはほとんどイジらないので、以後、どのような演奏がとりあげられても、すべてダメな試みとして位置付けられる。ようである。つまり、即興というのは、論理的には存在しないらしい。そのため、全体的にギロンが暗いかんじになっているようだ。なるほどこれは困った。



で、これについてはよく分からないのだが、ちょっと思ったことは、たとえばどうもこの本の中で、なんども「サイとハンプク」というフレーズがでてくるようである。
で、はっきりと理解している自信は皆無だが、個人的に理解している範囲だと、たしかそのタイトルの本は、序論の1ページ目から、ある物事の正確な反復はありえない、というところから始まっていたような気がする。気のせいかもしれないが、つまり時間は一過性で、そのつど条件が異なるので、全ての要素を正確に再現することは、実は出来ない、と言う話があり。そのうえで、では反復とは何か、ということが問題にされていた・・・ような気がした。ちがうかしら・・・よくわからない。
ただ、上の理解がまちがいであっても、それとは別に、そもそも正確な反復はありえない、というような考え方は、ありえるような気がする。あっても変でないかも。という気分。


なので、つまり何がいいたいかと言うと、そこまで枠組みで最初からガチガチにネガティブに組んでしまうのに、すこし風穴をあけてみることもできるかもしれないということである。整理すると二点あり。ひとつは、インプロの枠組みは別にベイリイのものだけである必要はない。
もうひとつは、ある種のスタイルの演奏を何度か試行したとして、それが即座に、何かの反復になるかどうかは、かならずしもわからない。
というかんじ。だからどうしたといわれると、よくわからないけど。




で。
あともうひとつ。この前半部分は、その後ろの方の大半がオンキヨウを扱っているのだけれど、そのあたりについても、なにか難しい。とりあえずわからなかった点を列挙してみる。
たとえば、ひとつにはオンキヨウとベイリイのインプロの関係が、どうなっているのか、完全な切断なのか、同じパースペクティブなのか、そのへんがわからない。もしインプロという広義の視野なら、上とおなじく、かならずしもベイリイの枠組みで見る必要もない気もするし、完全な切断だとすると、ベイリイの枠組みでは処理しえないことになる。かもしれない。というあたり。
もうひとつ、この本ではオンキヨウの特徴を、音色と聴取に限定している。では、はたしてそこに作曲とか、あるいは曲の構造みたいな話はどうなるのかというギモンもあるのだけれど、そのへんもわからない。



と思ったが、ただいま唐突に眠くなったので、とりあえずこのへんで。
というメモ。もうちょっと続く。




というわけであった。なにが如何なる理由なのかは、実はどこにも書いていない。


というわけで、とりあえず、
つづく。