つづき(×3)

どうでもいいが、暑い今日この頃である。季節的にはちょうどいいのかどうなのか、もはやわからぬ。
とかごくフツウに思う今日この頃。あんまん食べたい。



ジジ問題的。
とりあえずタチヨミしたソtoコtoで、「ユーコクホーダン」など拝読。なるほど納得ほぼ賛成。あと個人的には、中小キギョー連合会の動向と、忘れたが最近できたアイティー系の団体の意向とか気になるのだが、こういうことを書くだけで悶絶感があるので中座。というか、別段自分が頭がいいとか正直ミジンも思ってないが、このひとたちのを読むとホント頭いいなとおもう。だからどうしたというとよく分からないが。



そんなかんじで昨日の続き・・・非常にどうでも良いが、そういえば「優しくされた記憶がない」といって、コミュニケーションを絶つとかそういう意味ではなかった。というか、どちらかというと優しくされたいとかいって、当たり前か・・・。というか、以前に業務と称してメールをするというプロジェクトをやってみたが、そのような意味において、いまだに返事待ち。
しかし「やさしさ」の定義って、難しそうである・・・


とかなんとか。ちなみに明日はツノダさんの展示に行こうかと予定中。体調次第で。




というわけで、「カイタイ」のメモの続きである。オンキヨウのところから。
しかしながら、このへんからかなり難しい。トーンの暗さも尋常でなく、しかもいくつもの論点にドンドンとんでいく。よくわからないが、とりあえずまずそのへんをメモしてみる。


で。よくわからないが、カイタイにおけるオンキヨウのギロンは、要するにその特徴を「音色」と「聴取」に限定しているようである。それだけならいいのだが、じつはそれについて、むしろネガティブな価値評価が下されているようだ。このへんが、実はよくわからない。
とりあえずネガティブなポイントしてあげられているようなのは、要するにオンキヨウといえるような演奏形態が進んだ挙げ句、「音色フェチ」のような演奏にたどりついてしまった、ということのようである。色んな楽器の繊細にして微細な音の感触という点を追求した結果、たんにアレコレの感触を愛でるだけで満足するような状況になってしまった。そんなかんじのようだ。


で、話が厄介なのは、このフェチ状態が、演奏だけでなく、それについての言論にもみられるという、二重の問題になっていることである。つまり、演奏は演奏で音色フェチ的な演奏ばかりだし、かつ、それを聴く側も、音色フェチとして享受するだけで満足してしまう。そのような、演奏と言論の双方におけるフェチ状態。裏を返すと、オンキヨウの特徴であったはずの「音色」と「聴取」のいずれにおいても、いまやフェチになり、かつそこで自己満足してしまう状況が、演奏者においても客においても成立した。
で、それはほぼ完全な自己満足として完結しているので、つまりはここがドン詰まりである。というようなギロンのように思われる。


ついでにいうと、ここで問題なのは、実はおそらくこの「音色」と「聴取」という問題軸は、実は著者であるササキさんがいわゆる「テクノイズ」論などで自ら立てた問題である、とおもわれる。たぶんそういってもまちがいでないだろう。
なので、つまるところ、上にかいた「音色」と「聴取」のフェチ的な行き詰まり(の告発)というのは、どうも言ってみればある種のジコヒハンのようにも受け止められる。わけである。というか、たぶんそう読める。
なので、要するにこれが、全体にただよう暗いムードの一つの原因のようにおもわれる。つまり、「カイタイ」は、そうした意味でのオンキヨウのジコヒハンのような感じがある。ようである。ので、これはツラい。
というかんじ。



なお。
ついでにいうと、もう一つ。どうもこうしたヒハンとともに、平行してもう一つのギロンが進められているようである。それは組み合わせというか、組み合わせによる即興論の限界のような論点である。これがまた難しい。
あらかじめ先に話を飛ばしてみると、そうしたヒハンを経て、第二部では話が大きく変わってしまう。そこでは、もう音楽については論じずに、むしろエンゲキがギロンの対象になっている。で、そのときに問題になるのは、ある種の組み合わせとその操作による、表現ないしゲージツ上のリアライゼーションが焦点のようだ。
とりわけ、ロボットエンゲキのような、すべてをアルゴリズムというか情報的に分解して再構成した上で、ゲージツとして成立しうるような表現について、あるいは、それがどのように可能なのかという点について、ギロンがおこなわれる。
そこでは、ベイリイないしフリーインプロのような絶対的な自由のようなことは、ほとんど問題にされない。むしろ、いくつかの構成要素の組み合わせが前提とされるなかで、どのように表現を行うか、が問われているようである。


こうした論点の移動については、第一部ですでに出てきている。これが、上のオンキヨウ(論)ヒハンと平行しているようなのだ。これがかなり難しい。
ただ、そこでいっているのは、要するに、組み合わせ論的な観点からの、フリーインプロにたいする懐疑のようであるらしいことは、辛うじて分かる。つまり、ベイリイ的な、非イディオムで反復ゼロの演奏をインプロの原理としてみたとして。
しかしそこで演奏されるものは、結局は有限個の音の組み合わせに過ぎず、いかに非イディオムであろうと反復ゼロであろうと、結局はそうした組み合わせのうちの一つ(をたまたま選択した)に過ぎない。のではないか。というような懐疑であるようである。と思われる。
なので、こうした懐疑を経て、第2部では、むしろそうした組み合わせやその限界を踏まえた上で行われているような表現に向かう、という形でギロンが進んでいるようだ。そしてそこに向きあっているのが、エンゲキだということになっている。ようである。いいかえれば、いわゆるオンガクにおいては、上のような組み合わせによる限界という問題意識が欠落しているというふうに、ササキさんは認識している。のかもしれない。




のような的な。
というかんじ。なかなかハード。というか、しんどい。
よくわからないけど、どうもとりあえずこのような二重のヒハンが、即興演奏に対してかけられているようである。と、とりあえずメモ。
で、ではここからどうメモをするかといって、いくつかの方向性があるとおもわれるが、たぶん要するに、オンキヨウというときに、「音色」と「聴取」に限定にするかしないか、という話があるようにおもう。
簡単にいうと、何かもう少し構造とか、時間の問題とか、そのようなことがあったように記憶するのだが、そのへん一体どうなったのか的なメモである。もちろんそれは、ひょっとすると組み合わせ論的な問題も視野にはいっていたかもしれない。もしそのようなことがあったとすれば、つまり上の二重のヒハンは、かならずしも成立しないことになる。わけである。かもしれない。
と思ったり思わなかったり。はて。




みたいな。長くてつかれた。念のためだが、言いたいことは、とくにない。




うむ、こんなに長く書くつもりはなかったのだが、長くなってしまった。抹茶でも呑んでスッキリしたいところである。もしくはチャイとか。アブラソバとか。こってりだけど。


とかなんとかで。つまるところ、
つぎにつづく。