付記2

**(つづき)




 状況論のようなものは、あまりできない。今年、おおく聴いたものをあげるとすれば、ヴァンデルヴァイザー学派の作品ということになる。
 実際、リストの多くは、そうしたヴァンデルヴァイザーの作品にあてられている。また、近年は様々なレーベルからヴァンデルヴァイザー作品の録音も出ており、そうしたものも多く含まれる。その作品の多くはきわめて興味深く、いくら聴いてもつきることがなかった。
 しかし、その全体像を素描するのは、かなり難しい。どういうことか。その理由を含め、以下、簡単に記してみよう。


 まず第一は、その作品がかなり多く、かつ幅広いということがあるだろう。そこには器楽曲から即興性の強い作品までをふくめ、多様なジャンルを含んでいる。また、なかにはケージやフェルドマンといったいわゆる現代音楽の録音もあり、他方でラドゥ・マルファッティらによるフリー・インプロビゼーションではキース・ロウとの共演などもある。さらにマイケル・ピサロの作品では、ある種の実験的ロックの響きも導入されているとおもわれる。
 実際、活動の時期がきわめて持続的で長期的につづけられていることがあげられる。その活動は、すくなくとも1990年代末からはじまっており、着実に、地道に作品をつくりつづけてきた。
 また、その活動はきわめて多彩な人々によってささえられている。ヴァンデルヴァイザーの音楽は、一方である程度オーソドックスな教養を感じさせる作曲家と演奏家によってになわれている一方で(とりわけフレイの曲などにそれが感じられる。なお、その音楽はしばしば音がすくないことから極めてコンセプチュアルな印象をうけるが、聴いたかぎりでいえば、むしろごく少ないわずかな音でも充分に「音楽」として成立する、オーソドックスな感触を持っている)、他方では上記のようにそこにはマルファッティをはじめとして、いわゆる現代音楽の教養によらない演奏家や作曲家が参加している。またそのさい重要なのは、ヴァンデルヴァイザー作品では、参加者が互いに持ち寄った作曲作品を皆で演奏するという形態が多く含まれており、いわばそうした形で互いの作品をシェアする傾向も見られる。
 
 

 一方で、その作風について具体的に記すのは、かなり難しい。いくつかの作品や文章を読んだ範囲でも、その問題意識や方向性は、かなり多岐にわたっている。そこでは、歴史的な再考を促すものから、作曲、演奏、音楽形態それぞれの再考や刷新を試みるものがふくまれている。いくつか挙げてみよう。
 まず一つには、ケージの影響である。とりわけ、「ナンバーピース」からの影響をおもわせるものがあり、その録音もおおく出されている。また、さらにそれを極度におしすすめたとおもわれる作品もおおく、そこでは数少ない音が、偶然性やいくつかの条件下でコントロールされながらかさねあわされる。その音の配置や、制御する条件ないし確率は、それぞれの作品によってことなっている。
 また、そこでは環境音の侵入も許容されており、それらが演奏中にはいりこんでいる録音も多数発表されている。
 さらに、こうした作風に限定されない問題意識による作品も、複数でている。とりわけ「4分33秒」の延長にあるような、時間の持続と切断、および場所と音の関係を問う(とおもわれる)作品群が発表されており、演奏もおおくおこなわれている。
 くわえてミニマル・ミュージックの捉え直しも、おおきな焦点になっているようにおもわれる。そこでは、いわゆる反復を構造の中心においたものではなく、むしろ複数の単旋律や単音の重層的な配列によって構造を成立させるタイプの作品が重視されているようにおもわれる。リストにはいれなかったが、とりわけデニス・ジョンソンの「ノヴェンバー」は、そうしたタイプの作品としてあげることができるかもしれない。ヴァンデルヴァイザーではそうしたタイプのミニマル・ミュージックの録音がいくつも発表されている。



 こうした点を、個人的にどのように捉えればよいのか、まだはっきりとしてない。それは、一方で歴史の捉え直し(とりわけミニマル・ミュージックやケージの録音など)のようでもあるし、一方ではそうしたものを土壌にしてまだみえぬ途を模索しているようでもある。むしろおおきな印象論でいえば、その試みは、音楽の解体と形成が、同時になされているような感覚をもつ。そこでは、一方での音楽的な分析が、そのまま新たな音楽の構築に結びついているようだ。こうしたことは、たとえば一方的な音楽の破壊をもとめる向きには、いささか抽象的かもしれない。また、一般的な音楽をのみもとめる向きには断片的にしか捉えられないかもしれない。
 他方で、従来のジャンル論に依拠したアプローチは、そこでは通用しないだろう。いまのところ分かっているだけでも、上記したように通常の器楽演奏のみでなく、電子音響、環境録音、朗読といった、多様なジャンルをふくんでいる。
 そのようなジャンル論ではなく、むしろより具体的な分析からのアプローチの方が、はるかに有効に近づくことができるかもしれない。とくに、その音楽の性格には、一つ一つの楽器にかんする具体的なアプローチが感じられる。実際、いくつかのCDでは、全体的なコンセプトよりも、あらかじめ使用する楽器を限定したうえでの作曲が試みられているようであり、ピアノやオルガンから、トランペットとパーカッション、フルート独奏、声、口笛、サイン波といった楽器を設定して、複数の作曲者がそれにかかわる、というような作品がでている。そこでは、作曲者による作風がことなるというのみでなく、むしろ各楽器の特性(奏法や音色のみでなく、残響の具合や使用方法)をあらためて分析し、そこから作品をくみあげる、というような試行がなされているようでもある。
 じつのところ、そうして出来上がる音楽は通常の音楽とは似ても似つかない形態へと辿り着くことが多いが、それはいわゆる「音楽」全般に対する原理的な考察というよりも、むしろ個々の論点(この場合は楽器)への具体的なアプローチを通じてうまれているようにもみえる。あるいは、それぞれの作品においては、そうした個別の角度から「音楽」の解体と構築が同時におこなわれているといえるのかもしれない。
 いいかえれば、こうした作品群は、最初から「全体」を素描することを拒んでいるかのようでもあって、むしろ一つ一つの作品がそれぞれ独立した、固有の性格をもっているともいいうるかもしれない。これが、その全体を素描することの困難さの理由であり、また、にもかかわらずその作品に触れ(つづけ)ているひとつの理由(の一つ)であることは、まちがいない。





 いずれにしても、こうした作品はまだ聴きはじめたばかりで、十分な整理ができていない。とりあえず、聴けば聴くほど、おおくの問題関心につきあたり、まるで果てがないかのようだ。そこには、文学作品とのかかわりや(たんに引用するのではなく、文学者、作家、詩人との直接交流にもとづくものもある)、あるいは数理的な処理にもとづくものもあり、広大なという印象をもつほかない。今年リストに選んだのは、そうしたもののなかでも、あつかっている問題が広く、また沢山のアイデアがもりこまれているものばかりである。まだ、これ以外にも多くの作品がのこされていることは付記しておこう。
 ついでにいえば、これらのCDを探していくうちにつきあたったのは、まだ名前のあまり知られていない、いわば若手というべき作家である。その作風の多くは、これまでの多様な作品群を咀嚼しつつ、独自の観点をつけくわえたものもあり、その領域がさらにひろがっているようでもある。
 CDリストには、こうした観点からのリストアップもなされている。他方で、すでにふれたようにその多くは、まとまりがあるようで、個々の作品同士は直接には似ていない。ただ、その多くは一般的な音楽の構造を遥かに逸脱するものばかりであり、またデジタルをともなう新たな手法の導入をふくめ、それぞれが刺激的な形態をみせている。そこでは、けたたましい動物や鳥のなき声が、単なる装飾のように用いられこともないまま展開し、幾度かの反復をノイズ混じりに経ることで独自の語りを獲得した作品(「The portraits of men」。ちなみに本作の最後でおとずれる、上空を複数の航空機が乱舞しているかの情景は、いやがおうにも911を想起せざるをえない、恐ろしい不穏さをつくりだしている)や、一方で折り紙を折る手の音が複数かさねられて抽象的な構造を形成するかと思うと、ただ録音にさいしてのフィードバックノイズが延々と続くトラックがふくまれる野心的な作品(「sinter」)、あるいは、アルビン・ルシエやマルファッティからの強い影響をおもわせながらも遂にそこを逸脱して、ひたすらなスネアドラムの連打が構造をかたちづくる作品(「Duets for solo snare drum」)など、どれも通常の「音楽」の構造を逸脱しながらも、適切な(そこでは非正統的なものもふくむ)技術と手法によって裏打ちされた固有の作品となっている。


 あるいは言い換えれば、そこでは「音楽」の解体と構築が、それぞれのベクトルにそって密接な関係を結びながらおこなわれているといってもいい。もちろん、こうした試みはきわめて局所的かつ局地的にのみおこなわれている。端的に、ごくわずかな部数しかだされず、聴く者もかぎられているだろう。しかし、ここにおいてそのわずかなCD/CDRは、音楽をめぐる思考と試行がなされる場そのものであるといってよい。
(つづく)