付記3

**(つづき)



 雑感は、ほかにもある。たとえば、実験音楽演奏会はレクチャーのあともつづくことになり、そこでは日本に特有の「クラシック」や「現代音楽」につきまとう奇妙な身構え(自意識?)なしに、実験音楽が展開している。まだ客はすくないけれど、こうした音楽がある意味で根付くことを、強く希望している。
 あるいは、これまでほとんど特殊音楽でしかなかった音楽が、連続ドラマで演奏されたことも、あまりにも大きかった。とりわけ、民族音楽のリズムからギターのフィードバックノイズ、さらにサインウェーヴまで多様な音楽形態が盛り込まれ、かつドラマと密接な関係をもってつくられたサウンドトラックは、今年のおおきな話題でもあった。これについては、ただそれにとどめる。
 他方、実際の演奏にふれる機会は、かならずしも多くなかった。即興演奏については、むしろ、いわゆるノイズが上記のドラマをふくめアンダーグラウンドの領域からとびでたのに対して、個人的にはどちらかといえばドローンないしは持続音を主体にした演奏が、強い印象をうけた。より正確には、複数の(混濁しない)発音源から構成される持続音を中心に、それら相互のうねりや歪曲が全面的にあらわれるような性格によっている。いいかえれば、通常、ドローンは静態的な印象を与えるが、ここに挙げたのはいずれも動的なものであり、またいわゆる音色の表層が中心ではなく、むしろ動的な持続音が構造の中心となっている。端的に言えば、構造そのものが振動しているような音楽であると言っていいかもしれない。
 いうまでもなく、それぞれの表情や性格はまったくことなっている。にもかかわらず、そのいずれにおいてもほとんど野性的な力強さをもっていた。もしかすれば、かつてリズムがになっていたグルーヴが、いまや微細な振動のなかで形をかえて実現されているのかもしれない。いまなお即興演奏は、その姿を変えてあらわれつづけているようでもある。また、浅草の音楽解放区では即興オーケストラの演奏がほぼ完成をみたという印象があったことも、追記しておこう。


 もっとも大きな印象をのこしたのは作曲作品についてであり、けれどとくに書くべきことがない。前者の、息詰る沈黙から、急速に豊かな楽音が倍音列にしたがってひろがっていくさまは、ただうつくしいというほかない。それは、正統的/非正統的な演奏の区分を問わず、美学的な達成をはたしたことをおもわせ、むしろ、これを安易に「美しい」と言っていいのかが、今後の課題になるだろう。
 また後者の写真譜のユニットでの演奏は、これまでみたソロとはかなりちがう複雑な表情をみせ、発想のポテンシャルをおもいしらされる。そこでの写真→写真譜→演奏→ユニットへと拡張する表現に、音楽であるか否かをこえた即興の形態をみることは、はたしてまちがっているのだろうか。





 このようなことは、いずれも実際にCDやCDRを手に取り、あるいは足を運び、あるいは実際に目にしたものである。その一方で、リストはこうしたことには収まらなかった。すでにのべたように、いまやインターネットとの接続は不可避的であり、そこにおいてはさまざまのものを視聴するというのみでなく、ネットを通じてのみ発信されるものも多く含まれるとおもわれた。
 結果として、リストは二分され、後半はそうしたインターネット上のものに当てられた。そのおおくは個人的な感想や経緯から既発のものをふくむ作品に割かれているが、なかにはネット上のみで視聴できるものもふくまれている。また、必ずしもすべてが今年アップロードされたものではなく、個人的に今年発見した類いのものもふくまれている。


 リストでは雑駁に、ポップやクラブ、ライブパフォーマンスなどをいれてみた。ポップについては、共感や興味といったことよりも、ひとによっては反感を抱くかもしれない(それは、同時にそれだけの力があるということだとおもわれたので)社会的な意味合いをともなう曲があがっている。ほかには、個人的な観点からのリストがほとんどを占める。
 あえて特記するなら、すでにふれたヴァンデルヴァイザーの演奏家によるトラックがふくまれているが、これらはいずれも、ネット上のみで視聴できるかたちで、つまりCD化されないままアップロードされたトラックである。とくに、マンフレッド・ヴェルダーの作品をジョニー・チャンがリアライズした「2008/2」は、固定した視点による時間経過のプロセスが視聴覚的に示されており、映像と音響ともに鮮明な輪郭をつくりだしている。くわえてそこでは、カメラやマイクをとおしたことで、通常の身体感覚から若干遊離したユニークな空間性がえられているとおもう。他方、フェルドマンの2台のピアノによる演奏は、いわゆる残響を主体にした演奏とは異なってタッチとニュアンスのみで成立しており、空間的なパズルが組み上げられていくようなプロセスを奏者の手の動きとともに体験することができる。こうしたネット上にアップされた演奏やリアライゼーションは、その内容だけでなく、いわゆるプロモーションとは一線を画した、あらたな作品の発表方法を示してもいるだろう。
 




 追記することはほかにもある。あるいは、尽きることはないといってもいいのかもしれない。
 にもかかわらず、このあたりで、そろそろやめるべきだ。そもそも、このようなレビューにそれほど意味はない。実際、これを書いている現在、まだ2013年は終わってはいない。たとえ終わったとしても、それは何かの終わりではない。
 実際、ここに書いていないことは、あまりにも多い。たとえば、個人的に今年、興味をもって接したのは、ベケットの作品群である。あるいは、建築の諸作品である。あるいは、ボルヘス無限後退である。とくに無限後退にかんしては、いくつか音源をつくって音楽的な変換を試みたり、あるいは無限の概念について数理的な意味合いをみてみようとした。さして目新しくもないこの概念は(その数学上の概念は、19世紀後半から20世紀初頭にほぼ確立している)、しかし音楽上の問題として捉えるとそれなりに興味深く、はじまりとおわりの問題や、持続と組み合わせの問題といった、それまではあまりかんがえたことのない問題に突き当たることが多かった。また、そうした作業をつうじて、あらためて音源を構成する音色(の個性の必要性/不必要性)などについても、むしろ体感的に感じることとなった。なにより、無限後退の概念が持つ悪意は、いまなお刺激的である。
 いいかえれば、こうしたことをかんがえているわたくしは、もはや何かをレビューするに充分な客観性を有していない。これらの文章は、きわめて偏った、特殊な観点からなされたものである。とりわけ、市場への貢献などこれっぽっちも考えていない、局所的な作品群への言及によって構成されている。
 


 ゆえに、こうしたレビューをここで終わりにして、次の作業へ向かうことにする。それがどういうものかは、来年にかんがえることにしよう。



 最後に、いささか特権的に、リストにあげていなかった項目をひとつ付け加えておけば、これらのリストにふくまれる多くのCD、CDR、演奏会、さらにそれにかんする情報や考察は、いずれも水道橋のフタリという小さな店舗にかようことによっている。実際、その活動は、インターネット上の情報流通からマイナーな作品群の流通および製作、演奏会まで多岐に渡っており、バーチャルとリアルを架橋するものとして、その批評的鋭意をふくめ取りあげられてしかるべきである(さらにいえば、現在、日本においてこうしたマイナーな作品についてのレビューをもっとも多く記しているのも、そのホームページの紹介欄であるとおもう。そのことに、おそらく多くのひとが気づいていない)。
 ただそれのみを記し、付記を閉じる。
(この項、おわり)




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