雑記

たまに図書館に行く。本がたくさんあって、広い場所だ。もちろん目当ては本を読んだり探したりすることだけど、最近、実は図書館にはたくさんの人がいることに気づいた。
彼らの多くは(当然だが)本を読んでいる。中には携帯やパソコンをいじっている人もいるけれど、多くが座って本を読み、黙々とページを繰っていたり、あるいは何かの紙片にペンや鉛筆で書き込みをしている人ばかりだ。音はほとんどなく、何人かが通路を通り過ぎる足音と、受付の人の会話が図書館の天井に響いてはね返ってくる。


このような書き出しをしたのは、まもなくこのブログをはじめて10年になりそうだと気付いたからだ。奇妙なことに、文章を紙ではなくモニタで、配達ではなくインターネットを介して書いたり読んだりし始めてから、もう10年ということになる。そういうことをしながら図書館にいると、もしかしたらまもなくこういう世界はなくなってしまうのかもしれないけれど、紙の本を読み、紙に字を書き、それを読むという空間が独特のものとして感じられてくる。

10年と言っても、とくに方針はなかったし、今もない。ただそのときに思いついたことを、とりわけ、そのときしか思いつかないだろうことについて、書いてきただけだ。その中にはどうでもいい文章がかなり含まれているけれど、実際に今はもう思いつかないこと、考え付かないことについてのものもあって、時折思い出して読み返すと驚いたりもする。エッセイ、日記、フィクション、そういうものが雑多に押し込まれた机の引き出しみたいだ。


ただ、ルールは何もないけれど、これまでを振り返ると一つだけ、ある決まりごとがあったことに、最近気がついた。これもどうでもいいことに違いないだろうけれど、それはあまり悲しいこと、悲しさ、悲しみについては書かないという決め事だ。
それをいつ決めたのか、もう忘れた。途中、とても悲しいことがたくさんあったけれど、その前からすでに決めていたような気もする。
そしてそれは、今もそうだ。



どうしてそのような決まりごとがあるかといえば、それははっきりしている。なぜならここはインターネットだから。そしてインターネットは、いつも常に優しいばかりではなくて、怒りと悲しみを増幅させる力に満ちていると思われたからだ。
それは、言いかえればルサンチマンということになるのかもしれないけれど、嫉妬や羨望、憎悪、嘆き、虐待、虚しさ、そうしたものに溢れかえっているばかりではなくて、そうしたものを常にふくらませて伝播させるようなうねりがある。大きいものなら炎上ということになるのだろうけれど、もっと小さい、ほとんど目につかないような怒りと悲しみの波紋がいつもゆらめている。
人によっては、はっきり言えば、そうしたルサンチマンに飲み込まれて、もう今は点滅してしまっているような人も見かけた。小さな悲しみと、小さな怒りと、小さな羨望は、そっと多くの人に包まれてその人をのみこんでしまう。飲み込まれた人は、休むことなく怒りと羨望にかられて自分の姿を明滅させ続けるだけになる。ドゥルーズが言うように、情報管理社会には休みも終わりもない。終わりのない感情の記号のような人間。それはもうきっと人間ではない。


だから、怒りについてはわかりやすいけれど、もう一つ、その背後に隠れている悲しみについても、書かないようにしてきた。たぶんだけれど、僕はおそらくインターネットを使って、そこを活動の根本的な媒体として登場してきた最初の世代だ。それまでは、インターネットがあったとしても、同時に雑誌や活字メディアを使って議論を展開することをしてきた人が、大半だと思う。それに対して、最初からブログを選んだ僕は、わざわざ活字にすることも、あるいは自分自身が何らかの形で舞台に出て行くことも、極力しないようにしてきた。これは、そうしたある意味での一つの実験だと思っていたし、今でも少しそう思っている。
多少は恥を晒してもいい。個人情報は別だけど、人生の様々な岐路をさらけ出すことも場合によってはよしとしよう。日記を書くというのはそもそもそういう行為だし、どこまでが公で、どこからが私かわからないような場所でやってみるのも、まあ面白いかなと思ってみた。
ただ一つだけ、悲しみについては書かないようにしてきた。それは、すでに書いたように、大きかったり小さかったりする感情の増幅の波には乗らないようにするためだ。その波は誰かの個人ではなく、どこかからやってきて誰かを飲み込んでいく。その人の感情ではないはずなのに、誰かの感情に感染していく。それは、もうちょっと言いかえれば、たぶんその人本人の感情ではなくて、このインターネットというシステムが生み出している感情なのだと思う。繰り返しだけど、炎上についてはしばしば言及されることがある。けれどその裏でもう一つ、小さな悲しみの波がいくつも起きていて、そこはまるで一つの戦場のようだ。(きっとアダムスミスなら、市場の裏にあるモラル&センチメントの問題だ、というだろう)
そして実際、たぶんそれは一つの戦いなのだとおもう。



こういうことを、誰かに教わったわけではない。それに誰かにこれを強要したいわけでもない。そっとどこかで自分が見つけた問題で、正解が見当たらないまま、どこかで考え続けている問題の一つだ。
だから、悲しいことについて、書いてはいけない、というつもりはない。悲しければ、悲しいと書けばいいと思う。けれどそれが、その悲しみが、どこかからやってきた、どこか誰かの知らない悪意に乗っ取られたものだとしたら、そういうことを見たときにはすごく悲しくなる。その悲しみは、本人の悲しみではなく、システムがもたらした悲しみ、インターネットが押し付けてくる悲しみなのかもしれない。だから、そうした悲しみが身近な人や、身近だと思う人にやってきたとき、そのことをとても悲しく思う。怒るのではなくて、ただ悲しくなる。
ここはインターネットで、インターネットだからできるコミュニケーションを面白がってみたい。だからそのために、せめて自分の悲しみにだけは正直になりたい、システムの悲しみにではなく、自分が持つ感情に正直でありたい。だから本当に悲しいなら、そういえばいい。
くりかえしだけど、きっとそれは一つの戦いなのだとおもう。




きっとこの文章も、多くの人には笑いものだろう。それはそれで、一向に構わない。中には理解してくれる人もいるかもしれないけれど、理解してくれない人もいるだろうし、もうちょっと正確に言うと、理解してくれようと努力してもらわないと、理解してくれない問題のようにも思う。もちろん共鳴も理解も、あるいは従うことなんて求めていない。何しろ、ここはインターネットなのだから。



情報管理社会には休みも終わりもない、と書いた。きっとそうなのかもしれない。実際、今もこうして図書館でパソコンを叩いて文章を書いていて、まもなくすべての図書はパソコンとインターネットのなかに収まってしまうかもしれない。


でもまだその時ではないから、今から本を読むために、そっとパソコンを閉じようと思う。