札幌国際芸術祭おぼえがき5

少し立ち止まろう。ごく雑駁な知識だが、芸術作品では、ある時から作品が絵画を飛びだし始めたらしいことが知られている。主要な契機は1920年代のダダであり、以後ゴミやハリボテや自転車などまでが作品の素材として用いられ始めたという。さらに1960年代以降はテレビを使って映像や衛星中継やビデオなどまでが「作品」として並び、現在はセンサーやモーターやCGや化学実験や料理までもが並ぶ展示が行われていて、芸術大学の先端的メディアアートやバイオアートとしておこなわれている。もう素材はキャンバスからはみ出てしまって、楽しげにあちこちをさまよっているようだ。


これとは別に、1900年代前後からは作品の中に音を封じ込めたものも出てくるという。音は振動であるのだから、時間を封じ込めているのかもしれないが、実際1920年代以降には「音の缶詰」なる作品も出てくるし、封じ込めている録音装置を踏んづけたり叩き割ったりする作風や、挙句は作品自体が音を立て始めるものまで出てくる始末で賑やかだ。
そしてたぶん、こうした流れを札幌の芸術祭に感じても、それほど無理ではないように思う。なんとなくそのようなことを思いついたものである。



もう少し立ち止まりたい。こうした流れを、メディアアートサウンドアートと呼ぶことができるかもしれないし、その枠組みや定義をめぐる込み入った話もあるらしい。けれど、たぶんだが、とりあえず重要なのは、そうしたことではなくて。こうして素材が飛び出てしまったからといって、難しいことをしようというわけではないらしいということだ。考えてみれば、かつては絵の具で花を描かなければならなかったところに、今では普通に生花を置いても作品になるということだろう。けれどだからと言って、生花に難解さはどこにもない。
あるのは花のうつくしさばかりのはずで、誰でもふとした時に感じるものの一つかもしれない。そのはずだろう。


けれどそれは、素材がちがっても同じうつくしさがあるということでもない。実際、たぶんだが、描かれた花と、実際の生花との間には、それを見て触れた時に得られる感覚は違うものだろう。描かれた花には、絵の具の筆遣いや色使いが息づいているし、生花には花の種類や鮮度やその傾き、匂いがつきまとうはずだからだ。どちらも同じ花である、けれどもキャンバスを飛び出したところには、また違う新しい感覚が宿っているかもしれない。そのはずだろう。



この二つは矛盾しているようだけれど、そうではない。なぜならこれらは一般論だからで、一般的に同じであり、また一般的に違うということもありうるということだ。一般論とは、AもBも一緒くたにしてしまうから、そういうことになる。


では果たして本当に同じで、あるいは違うのか。それは作品を見なければ感じることはできない。それは一般論ではなく個別論で、そこにこそ個別の作品の体験が宿っている。そこでは、新しかったり、懐かしかったり、そうでなかったり、そうであったりするだろう。そうであるか否かは、すべて作品それぞれにかかっている。
だから、ここに書いたようなキャンバスから飛び出して以降の、1960年代から21世紀10年代までの最先端の作品が山盛りになっているかのような芸術祭では、ただの時代論にまかせるのではなく、一つ一つの作品に触れて、見て、聴いてみなければならない。そしてその感想は、決められた誰かが言うのではなく、花を見て、花が描かれた絵画を見て思うことと同じく、見た人各人で異なるものであっておそらく構わないはずのものであるだろう。




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