札幌国際芸術祭おぼえがき9 備忘録(承前)

備忘録
9月6日水曜日(承前)


美術作品と体験は非常に難しい問題であると思う。とりわけ美学的な感情や理性を刺激されるのではなく、身体的刺激や衝撃による感覚の想起を引き起こすたぐいの作品は、記述も、また分析もむずかしい。
とりわけその代表はノイズ・ミュージックだろう。すでに電子音楽からインダストリアル、ノイズ、テクノイズに至るまで、強烈な鼓膜への圧力と刺激を与え続けてきたその領域は、いまなお評価の網目の中に空白を切り開く力を持っている。


道に迷った。中華屋を出たところで東西南北を間違えて東へ移動したらしく、仕方がないのでドミューンまで戻り、地図を頼りに南下する。区画を一つと少しで、角にある建物にポスターが貼ってあるのを見た。AGS 6・3ビルの堀尾寛太の展示。角を曲がり、空いていた入り口から中へ入る。
到着してパスポートを見せる。あちらですと言われた方角へ行くと、入り口が狭い。階段も狭い。木製の歪んだ階段を這うように登ると内部へ出た。出たところは1階(?)らしく、まだ低い階段を曲がる。使い古されたビルらしく、スタッフの人がいる。説明文があり「建物を補完する」という旨。
全体は、要するに引っ越したあとの粗雑な気分の残る部屋、という趣きで、クリーム色のタイルや壁、傾いた照明器具、からっぽの棚、という風情だった。唯一、天井から壁にグルリとロープが渡されていて、これが補完というもののようだった。たしかに作業用のかなり太く長いロープが、いま来た階段の方から、部屋の奥の滑車でいちど曲がり、2階らしき向こう側へとだらしなく伸びている。荒々しいといえば荒々しいがシンプルといえばシンプルで、この付け足された補完を、これから読み解いていかなければならないのか。


という考えは、完全に間違っていた。ちょっとしたら、全部動くんですよと、スタッフの女性が言った途端、いきなり装置が作動して、天井から室内の壁に沿って、さらに奥の空間まで続いていたロープが、巻き取られたかのように回転し始めてそれに合わせて下から照明器具がせせり上がり、別のものはずり下がり、凄まじい物音が下から響いてくる。おまけに奥の空間ではどうやらシャッターが動いており、見ればロープが何本も梃子の原理のように縛られた形でそのまま吊り下げられた力を失ってずり下がっていく。軋みというより怒号に近い金属の振動やシャッターの作動音。動いているロープ全体は(あちこちで結びつけられている?)一本の動きで、それだけでそれに接続されたいくつものロープの結び目によって壁と床以外の空間の位置が移動して、止まったときには、光景はそっくり変異していた。


あまりの事に呆然として笑っていたようだ。何分か1回、動くんです、とスタッフの人はにこやかに教えてくれる。それに対して、ずいぶんダイナミックに動きますねと返した。少し呆然としたのち(もう元がどうだったのか覚えていないのだ)、指示されて、次に部屋のすみにあるというもう一つの展示に行く。とはいえ、あちこちにロープが垂れさがっているのが見え、それがまた器具を持ち上げらたりするのかと思うとやや怯える。
こちらでは小さいが繊細な展示がある。奥には、衣料品店だったのか、試着室のようなロッカーが二つ並び、そののぞき穴を貫通していた細い糸が異様な速度で振動して穴を叩いている。よく見れば糸にさらに糸が結びつけられ、垂れ下がったその先端にある磁石らしきものがロッカーの壁面にある磁石らしきものと反撥して小刻みに動いている。糸の高速の振動はこれによるのか、ピピピピとしか形容のできない細く鋭い打擲の連打が響いている。
マイクロセカンドの打音にしばし凝視していると、そうしているうちに再び部屋全体の装置が作動して、また部屋や階じゅうの怒号と移動がふたたび開始される。空間が変異していく。もう戻れない形で再びストップした。
怒号というか轟音から想像したのは、インダストリアルノイズだった。あるいは、そう目の前の糸の振動はテクノイズだ。
空間中のマテリアルが立てるノイズだろうか、あるいはノイジーな空間なのか。




これでおわりではなかった。
まだ地下あります、というスタッフの方の声に促され、地階への階段を降りていくともう一人スタッフの方がいて、懐中電灯をもって案内してもらう。
地階は、倉庫だったのだろうか、コンクリートむき出しばかりの部屋で、やはり部屋にロープが渡っている。それに片側には天井から、これも奇妙な装置があって吊り下げられ、ヤジロベーのように揺れながら、片端にブロックが付いていてコツンコツンと床を打っていた。天井の白色蛍光灯がちらつく。なかなか趣きがあり、ジャコメッティのような装置だなと思う。
スタッフの方が、上の階のシャッターが天井のボタンに接触すると、電灯が消えます。と言うところで、実際に階段口の方から轟音が聞こえてきて、そして真っ暗になった。


視界が点滅して激しい刺激を受けた。コツンと床を打つごとに、蛍光灯が一瞬だけつく。コツンと床を打つごとに、蛍光灯が一瞬だけつく。奥に揺れる板が吊るされており、そこに尾のように垂れた銀糸が揺れている。一瞬の点灯の中で銀糸はまるで稲光りのような形態で浮かびあがった。強烈な空間からの刺激を受ける。コツン、コツン、という動きはランダムで、そこにスイッチがあるに違いなく、廃墟、稲光り、打音は呪術的なまでの単純なパーカッシブで、身体的感覚はノイズとの近接性をおもう。いやこれは、むしろノイズの表現と言って良いだろう。ノイズミュージックやノイズ、テクノイズを体験したことのない人がどのように感じるのかは、正直わからないが、視聴覚的というべきなのだろうか、あの呪術的にすら見える装置のあり方は何なのか、強烈な身体感覚が空間にのこされていく。



地階から出てくるときには、もはや途方に暮れてはいなかった。ノイズだと思う。力強く野蛮で凶暴で若々しく知的だ。次の場所へ行こう。狭い入り口を逆行して戻る。受付のスタッフの方に次の順路を聞いた。入り口の向こうで轟音が聞こえ、また部屋が動いている。と思っていると、すぐ側にあった受付口のシャッターまでが下がり始めた。凄まじい轟きとともにシャッターは下がっていき、出るはずの扉は閉まってしまう。おまけにガチンとスイッチの音がして照明が落ちた。受付口まで真っ暗になった。途方に暮れた。
スタッフの方が携行ライトで地図を照らして、その目的地はこの住所ですね、と先の質問に教えてくれる。慣れすぎではなかろうか。歩けますか、と聞くと、たぶん。と言われる。じゃあ歩きます。というあたりでブザーが鳴って、装置が動き出して、奥から轟音が聞こえる。
それとともにすぐそばのシャッターが上がってゆく。確かにこれも何本ものロープが結びつけられて、凄まじい力で引きずり上げられているのだ。全てが一つでつながっている。(あとで気づいたのは、この「入り口」というのが実はビル全体の駐車場入り口ということで、つまりもともとのビルの入口は(シャッターが下りていて)閉ざされている、ということだった。そういえばこの「入り口」から展示内へと入っていく開口がせまいのは、工事用に無理やりに開けられたものだったのではないだろうか。そこから、つまり駐車場から、廃ビルの1階へと進み、そして2階の商店のシャッターが上下するのだ。ロープ一本の輪が建物中にごろりと置かれ、それが回転するごとにあちこちで滑車の原理だけで建物ごと素材にして動いていく。エンジニアリング的想像力が、本来土台とすべき基礎そのものを動かし始めてしまったのか。そしてその轟音から少し距離を置いた地階。もう一度たどろう。街の通りに面した「入り口」から、機械と装置の怒号飛び交う1階、そして静寂と刺激の炸裂する地階へと、なんと考え抜かれた距離と順路だろうか。何より、この野蛮とも暴力ともつかぬ力を感じざるをえない展示が、歓楽街の端でおこなわれていることにも、奇妙な刺激をおぼえる)


シャッターが上がっていくと、実は出入り口に待機していたのは自分だけではないらしかったことに気づく。すぐ側に、たぶんこの辺りでのんびりしていたのだろう子供連れのお客さんがいて、子供達はシャッターと暗闇にはしゃいでいる。うるさくてすいません、とお母さんに言われ、いやいや、ずいぶん楽しそうですねえ。などと話している間に、通り抜けられるくらいの隙間まで開き、あるいはそれだけの幅を残して、シャッターは止まった。