札幌国際芸術祭おぼえがき10 備忘録(続々々)

備忘録(続々々)


9月8日 金曜日


アイスコーヒーを飲み終えたら、ちょうどいい時間だった。午後2時45分。もう行くことはできない。
ドトールを出て、ススキノ駅まで歩く。この3日で随分とここを通ったなと思う。地下への階段の、少しひしゃげた扉を開けて、地下鉄の構内に下り、電車で札幌へ。駅の地上階に出ると天井に風呂敷が旗になって広がっていて、少し見上げてから改札へ向かった。帰りだ。


今度は席を予約せずに空港への電車に乗る。座席指定のない普通車両は意外に混んでいて、立っている人も、途中で乗車したり下車する人もいる。席に座っていると、向かい側の人が暑そうに汗をぬぐう。立っている二人の男性が専門的な用語を使って話し込んでいて、そういえば北大では学会があったなと思い出した。
来た時とおなじく、空港でのチェックインは簡単で、格安航空券は一枚のレシートが出てくる。これで飛行機に乗れるのかと再度うたがったが無事にゲートを通った。一服していると飛行機が見え、ここを発つのだと思う。ずいぶんと色々な人に会ったような気がした。



飛行機の中で、読み残していたガイドブックを取り出して読む。行けなかった場所、企画、イベント、展示、食べもの。食べものは本当に惜しいところだったが、実際に見かけた海鮮屋はススキノの「すしざんまい」だけだったので、もうどうしようもあるまい。
企画も展示もたくさんある。オープンゲートは見たかった、アジアンミーティングも見たかった、芸術の森も、野外彫刻はとくに行きたかった、毛利さんや堀尾さん梅田さんのエッセイ、インタビュー、芸術祭について、ガラクタについて・・・
ちらりと思い出す。デバイスがむき出しになった展示は、それらの発する音ではなくその周囲の空間全体を変容させる。あれらを、バシェの「音響彫刻」やデバイスの美学として捉えられるだろうか。
ちらりと思い出す。空中回廊。津波から取り出されたピアノであり、鳴っていた金属は廃坑の商品であり、全体は崩壊した彫刻の作家ビッキの詩の朗読で彩られていた(あの展示を「ジャンク」と呼ぶ人は少ないとおもう)。打ち捨てられ、壊れ、浚われ、その再生でできている。奥にあるグランドピアノへとたどり着く音は、ジャンクと呼ぶことのない、過去と現在の対話なのだろうか。
ちらりと思い出す。ススキノのキャバレーの椅子。語られていた貴重なインタビュー、集められたエロス、人の着ていないドレス。
音楽と美術のあいだについてではない、札幌の街の過去と現在のあいだについて、そのあいだに生まれた作品との対話を、そこを離れながら、思い出すべきだろうか、始めるべきだろうかと考える。




1時間半で離陸した旅客機は成田に着陸した。何事もなく無料バスでターミナルを移動して切符を買い、東京へ向かう。すっかり空腹で、到着したら餃子定食を食べるしかないと決めて電車に乗った。
その間も、様々な情報がネット越しに入ってくる。今日の天気、今日のライブ、企画の情報、イベントの告知。というより、実際それは、これを書いている今まで続いていて、札幌を離れても様ざまな情報が入ってきている。台風直下のオープンゲート、アジアン・ミーティング・フェスティバルのレビューやレポート。展示内でのいくつもの演奏について。あちこちに車で乗り付けるオーブンで野菜を焼き食べる人の感想、円山公園アイヌの遊牧テントを模した作品を開き、仮想の村が出現する様子、風呂敷工場での作業の達成感、狸小路に展開するテレビ局の中継、ドミューンのライブ放送。
とりわけ京丹後のアートキャンプを経由して札幌にやってきた香港のフィオナ・リーとは、フェイスブックで台風で帰国便が危ぶまれた日の千歳空港駅までの時刻表などをやり取りしてすでに思い出になっている。それに、札幌の美術ギャラリー情報を配信している方の文章を読んだり、アジアン・ミーティング・フェスティバル最終日の直後に市街劇を観劇し、地下遊歩道でテニスコーツが演奏するのを鑑賞した人のツイートから、梅田展示を楽しんでいるお子さんのお母さんと会話したスタッフの方の感想を見かけた。そういえば資料館の木彫りの熊の展示には、いくつか熊が追加されたという。
芸術祭ってなんだ?というこのテーマの問い方には、いささかトリックがある。さまざまな人に意見を聞いたら色々な答えが返ってきたから全部やってみた、という趣旨のコンセプトは、まあほとんど「芸術祭てんこ盛り」のようで(ちなみにこれを思いつくたびに、食べられなかった海鮮丼を思うばかりだ)、その上に問いかけが乗っている。アートとフェスティバル。地域アートというより、芸術と祭りの関係や、その意味が問われているのだろう。芸術の祭りとは何か。芸術で祭りは可能か、芸術の祭りは、ふつうの祝祭と同じように都市や地域文化と関係するのだろうか。それは、つまり芸術祭は、芸術と同じなのだろうか?




そんなことを考えるのは、けれど、まだちょっと先のことだった。電車は1時間ほどで東京に入り、降車した駅で改札をでて中華屋へ向かう。予定していたメニューを食べ、もう一度電車に乗って、そう、いつも行くカフェにたどり着いた。金曜日の夜は人が多く、疲労と休日への解放感とがゆったりと交ざっている。
一服して、帰ってきた、と思う。何か悔いはあるだろうか。あまりない。まあ、ちょっとベッドが固かったな、コンビニに行き過ぎたかもしれない、ICカードのチャージはすっかり払いきって、また明日チャージしないと、と思う。あとは、まあそれくらいだろうか。


そういえば、そう、別れ際に、きちんと挨拶できたかが、心残りといえば心残りだ。せめてきちんと握手を、せめてサムズアップして、そういう挨拶をすべきだったかもしれない。あるいは、その後に知った、ナムジュン・パイクの「ALL STAR VIDEO」は1984年に坂本龍一の全面協力で製作されたものらしく、映像の中ではジョン・ケージローリー・アンダーソンなどが出演していて、そう、これを知っていれば、あるいは注目していれば、もう少し早くメディアアートとして意味のようなものをより太く見出せたかもしれない。創造都市としてメディアアートの芸術祭をする、という市民の要請から立ち上がったこの芸術祭の意義や位置付けを、より正確に把握できたようにも思う。
けれど、そんなことを考えるのは、もう少し先のことだ。思い出されるのは昨日の夜、ライブハウスで交わした会話と、その別れ際のこと。そう、せめてサムズアップか握手か、その場ではうなずくだけでやり過ごしたことを思い出す。ゆるやかに広がりつつあるような街の芸術や音楽のネットワークとその興奮を感じながら、その余韻ののこるその場所で、僕はその声を聞きながら、背後から聞こえて来る声を聞きながら、まっすぐに出てきた。それはアートや評論、芸術や音楽の対立、議論などではない、そのようなものではない。それはどうぞ業界でやってくれ。僕はそういうものを見に来たのではなかった、その場の文化、その場にある都市や美術、音楽、芸術を、そこにあるありようを、見に来たし、できればその中を少しだけ通過してみたかった。つまり、それは芸術祭などどうでもいいことで、けれど芸術祭があったから知りえて、体験できたことなのだろう。



また、札幌に、来てくださいね
と背後から言われたその声に、だから、僕は静かに頷き、それにまだその声は音楽と美術の間でいまも響いている。