演奏とざわつき

ややすると、演奏がはじまった。Sachiko M石川高による、大友作曲作品の演奏。CD
で出ている「モジュレーション」の変形バージョンらしかった。これは生で見ないと分からないのではないか。そんな期待があった。明らかに会場が騒いでいたが、少しくらいは仕方ないだろうと思っていた。静かにサイン波が聞こえてきて、それがCDで聴くものとはあまりに違う柔らかい音なのにびっくりした。笙がちいさな音を長く長く鳴らしていた。持続的な演奏で、これは長く聴かないとおそらくわからない。そう思っていたら、携帯電話で写真を撮るときの電子音が鳴り始めた。何人も携帯を高く挙げ、バシャバシャ言っている。そして5分くらいすると明らかに沈黙に近いその演奏に耐えられない人が出てきた。喋り声が聞こえてきて、作家が入っている箱をドンドン叩く人が出始めた。目の前で首を振って立ち去ろうとする人がいた。携帯電話のシャッターはますます増え、徐々にざわつきが大きくなっていった。
僕自身は、美術会場で騒ぎがあっても別に良いと思っている。絵を見ている隣で騒がれようが、ラジオ体操をしていようが、大声で歌う人が出てきても、それはそれで構わない。模写する人がいるのが普通だし、大きな声で講釈を垂れる人がいるのも構わない。そういう騒音を聴くことで、むしろ別の考えが起きることもあるかもしれない。だから演奏中に騒ぎがあっても気にしなかった。しかし、徐々にざわつきは大きくなっていった。演奏はほとんどそれに呑まれてぶつ切りにしか聞こえなくなってきた。それはそれで構わないと思いつつ、しかしここで気づいたのは、騒いでいる大多数が演奏そのものを聴いていないらしいことだった。むしろそのことの方に驚いた。不愉快ならば会場を出ていけばよいし、カチンと来たならヤジを飛ばせばよい。下らないと思えば冷笑すればよいし、邪魔したければ声をあげればよい。それくらいの混乱はこっちだってある意味で歓迎だ。そんな中で、モジュレーションというものが何か具体的に僕は知らないが、おそらくその影響で鼓膜が歪んだような感覚が起こり始めた。