無関心と消失

けれど、あのとき演奏中にあったのは徹底した無関心だった。演奏があり、作品がある中で、かなりの数の人が、そもそも演奏を聴いていないのだった。オープニング・パーティがどんなものかは知らないが、理解できないならば会場を出ていけばよい。たかが20分くらい文句をいえば再入場させてくれるだろうし、入れてくれなかったらその時こそ騒ぐべきだ。不愉快ならせめて演奏者に喧嘩を売ればよい。だが、事態はそんなものではなかった。ものすごい量の無関心が音の塊となって鼓膜を支配し始めていた。サイン波のせいか耳に水が入ったように音が歪んで距離感がなくなり、笙の和音は美しく、耳の中で騒音とサイン波と和音がうねっていた。そして奥のスペースで話している人たちの声が、耳の中で奇妙に立体的に渦巻いた。
僕はこれほどの無関心の表現を見たことがなかった。いや、それはまったく意図されたものではなかったし、むしろ不本意でさえあっただろう。しかし、それが意図されたものではないゆえに、余計に歪んだ耳でとぐろを巻く騒音の粒にぞっとするものを覚えた。そしてそれは抽象的なものでは全くなく、この首都東京の六本木で起きている現実なのだ。僕もその中にいて、しばしば取ってしまう無関心の姿。その現実の姿が、ここで圧縮されて音のかたまりとして浮き彫りにされていたのだった。