消失と持続

しかもその中でSachiko M石川高は、びくともせずに演奏を続けていた。Sachiko Mは野次になれているのかもしれないが、それでもどこか辛そうに見えて、石川高は笙を口にしたまま微動だにしなかった。ざわめきの中で音が聞こえてきた。
僕はその無関心と無理解に、正直圧倒された。東京は田舎だ、と思った。そしてそう思っている間にも、まったく揺るがずに演奏をつづける二人の演奏者の姿勢に、あらためて感じ入った。普通だったら怒り出したり、静粛を促したり怒鳴ったりするだろう。それがまったく微動だにせず、ただ演奏を、繊細で美しい演奏を続けていた。断片的にしか聞こえなかった演奏は、ナイーブに美しいと言ってしまうほどのものだった。笙の和音と、歪んだ聴覚とサイン波の柔らかい音だけで、たとえば聖歌隊のコーラスを教会で聴いてナイーブに美しいと漏らしてしまうのと同じような意味で美しかった。ただ、それが無関心と無理解に取り囲まれて消えていた。これは、ごくあたりまえの光景なのだろうか?
その演奏者の真摯さと観客の無関心のあまりのギャップが、徐々に衝撃としてふくらんできた。そしてその二人の奏者の姿を見て、はじめてこの展覧会がジョークやシニシズムだけではない何かが賭けられているものだと思い始めた。演奏が終わり、何事もなかったように(つまり演奏などなかったように)パーティが続いた。「消失」がテーマとされるこの展覧会で、すでに演奏は無関心と無理解によって消失した。では、そもそも何が消失しているのか?