消失ふたつ

あらためて展示をじっくりと見た。3人の作家による展示はちぐはぐでもあったけれど、それゆえに多様なメッセージを読みとれるものでもあった。
それは、二つの消失を示していたように思う。ひとつは、消えてしまうこと。あったものがなくなってしまい、展示はいわば残された廃墟であって、それらに印象づけられる、いわば消失の手触りというべきものだ。箱の中の作家の気配、消えた文字の群れ、聞こえない音楽。とくに、ヘッドフォンを付けてジャックに触れたあと、放した指先を宙にさまよわせたとき、そこにあるはずの何かが掴めず音が消えてしまった指先の感触は、まさに消失の感触として感じられた。
しかし他方で、その展示は、そうした消失が実は錯覚に過ぎないと強く主張しているようにも思えた。テキストをじっくり読むと(いまなお、はっきりと意味を取れたとは思わないけど)、悪魔の攻撃以後、本来は守るべき悪魔人間が誤解と無理解によって殺戮されてしまう過程が記されていた。ヘッドフォンもまた、消えているように思われるがその場所に指を触れれば、破壊されていようとも音楽がかかることを示していた。壁にあった小さな虫眼鏡の作品も、レンズを通すとそこに人影が踊っているのをはっきりと見ることができた。
だから、ここで消失は二重だったと思っている。そして、そこに強い社会的なメッセージのようなものを受け取った。テキストの冒頭には、これは夢ではない、というようなことが書いてあり、悪魔の攻撃を自爆テロと表現してあって、そして殺戮される悪魔人間は悪魔と人間の子であり、両者を和解するような存在であり、たぶん希望なのだった。それを勝手に読み込めば、その含意は現在つづいているイスラム社会との戦争、誤解と無理解と無関心によって引き起こされているような戦争のことを言っているように読みとれた。だから僕たちのまわりでは何かが消えていて、しかしそれは消えているように思っているだけに過ぎなくて、しっかりと見つめれば、そして見出すために手を伸ばしたり自分たちが体を動かせば、その消えている何かは見えるのだ、そう言われたような気がした。そして、そのメッセージの隣で、飴屋法水が箱に入って命を賭けて閉じこもっていた。
閉じこもることは誰にでもできるし、そのこと自体が面白いわけでもない。けれど、勝手に頭の中で組み上げられたメッセージが、命がけの表現と背中合わせになっていることに気づいたとき、強く揺すぶられたことを率直に記しておく。