買ってみる

大谷能生の「「河岸忘日抄」より」を買って、聴いた。すでに2回聴いて、3回目に入ろうとしている。とても変わった作品というか、買った契機が何なのか、我ながらよく分からない。それまでの作者の批評文が面白いからなのか、レーベルなのか。僕はこのテキストは未読だし、でもとてもわくわくしながら買った。どんなことになってるんだろう、と。こういうのは久しぶりかもしれない。
で、唸るような感想。朗読ものだが、ラジオドラマのような劇伴の音楽が付いているわけではない。かといって、音楽に乗って楽しく盛り上がるカタルシスがあるわけでもない。
まず最初にパーカッションとサックスが盛り上がって、よく分からない音響みたいな音がそこに挟まれる。で、思わずやはり音響か、音響とジャズか、と思う。続いて肉声。ちょっと鼻づまり気味の低い声で、右左中央と移動したりする。音響、パーカッションがそれに加わると、まったく勝手な印象でゴダール「映画史」を思い出す。「jlg/jlg」でもいい。低い声で。唐突な効果音か。
しかしそれは違う。聴いていくと、パーカッションとサックスというのは単なる導入というよりも、実は、単に効果音だったりBGMだったりに思えたそれらが、テキストの朗読を通じて、かなりハードな歴史の重みを纏っていくような過程になる。あるいは逆に、その導入部の音に歴史的な意味づけが見出されるような、そうした驚きにいたるのが、この朗読作品であるらしい。我ながら文章がちょっとおかしいが。
それはテキスト自体がそういう構成になっている。最初、寝ぼけ眼で、聞こえてくる太鼓の音に、一人勝手に意味づけをし、ちょっとした感慨だけをもっていた話者は、いくつかの自省と反省と回想と、ちょっとした会話を経て、その勝手な意味づけが適当な感想に過ぎなかったことに気づいてゆき、さらに遙か遠く(地理的・時間的に)まで語りを延ばしてゆく。そこで語られることが、内容的に異常に珍しいものであるかどうかは分からないが、ストーリー展開の急速さ(唐突に場面(?)転換がなされる)は緊張感を高め、ほとんど妄想にちかいだろう終わりの方では、妄想であるにもかかわらず逆に奇妙なリアリティと覚醒感のようなものをもたらす。演奏は、それをより錯綜させ、重層的に仕立てるようになっているということになるのかもしれない。冒頭に入るプシューとかチチチチとかいうようなコンピューターの音は、朗読という変わった世界に入るきっかけであると同時に、いきなり民族臭・歴史臭のある音楽であることを避け、無国籍的・非歴史的な趣をあたえる(そしてその後、さまざまな文脈に置き直されてゆくとして)操作であるように思える。だから、「音響」というようなレッテルには収まりきるものではないだろう。むしろ、それをはみ出していくようなものであるように聴いた。
いくつかの楽しみ方があるように思う。僕はあまり朗読作品を知らないが、知っている範囲で、この作品はまったく映像を喚起しないというか、積極的に映像的ではない。また、たとえば英語詩の朗読にあるような、言葉のリズムや韻によって自然に/感情的に盛り上がるような(たとえばルー・リードの「レイブン」の、ウィレム・デフォーによる「大鴉」朗読のような)ものでもない。また、ある意味でこれはお洒落ではない。洒落た作品であるには40分は長すぎる。
代わりに、とても少ない音と朗読の間で、じっくりとその意味を楽しむ余地に充ちている。とくに、くり返しになるがパーカッションとサックスだけ(ではないが)を、ゆっくりと様々な意味の下に置き直してゆく驚きと、その驚きがさらに別の意味をもちだしての緊迫感を味わうのは、まだこれからの楽しみ(というより、聴く側が積極的に見出していけということなのかもしれない)だ。それに、そもそもテキストを知らずに聴くと、逆に文章を追う楽しみもある。実はしばしば出てくる「彼」が、いったい誰なのか、一聴しただけでは分からなかった。読んでしまえば読み飛ばしてしまうものを、ここではくり返し聴かないといけない。しかも、語りはとてもゆっくりで、もつれた糸をほぐすような余地がたっぷりと取ってある。そしてそれは、「語り」でなければありえない楽しみだろう。
ただ、とりあえずの感想としては個人的には終わり方がちょっと中途半端な気もする。どのように終わるかというのは難しそうだけれども、ここだけちょっとラジオドラマっぽい気がする。
たぶんこれから繰り返し聴くと、おそらく色んな音に慣れてしまう気もするので(1回目は異様に長く感じたが、すでに2度目ではかなり短く感じた)、とりあえずさっと聴いた感想。なんども書くが、僕は素人だ。こうして書いてみると、かなりの意欲作であるようにも思われるが、単に「意欲作」というレッテルでやり過ごされるべきではないものであるように思う。