札幌国際芸術祭おぼえがき5

少し立ち止まろう。ごく雑駁な知識だが、芸術作品では、ある時から作品が絵画を飛びだし始めたらしいことが知られている。主要な契機は1920年代のダダであり、以後ゴミやハリボテや自転車などまでが作品の素材として用いられ始めたという。さらに1960年代以降はテレビを使って映像や衛星中継やビデオなどまでが「作品」として並び、現在はセンサーやモーターやCGや化学実験や料理までもが並ぶ展示が行われていて、芸術大学の先端的メディアアートやバイオアートとしておこなわれている。もう素材はキャンバスからはみ出てしまって、楽しげにあちこちをさまよっているようだ。


これとは別に、1900年代前後からは作品の中に音を封じ込めたものも出てくるという。音は振動であるのだから、時間を封じ込めているのかもしれないが、実際1920年代以降には「音の缶詰」なる作品も出てくるし、封じ込めている録音装置を踏んづけたり叩き割ったりする作風や、挙句は作品自体が音を立て始めるものまで出てくる始末で賑やかだ。
そしてたぶん、こうした流れを札幌の芸術祭に感じても、それほど無理ではないように思う。なんとなくそのようなことを思いついたものである。



もう少し立ち止まりたい。こうした流れを、メディアアートサウンドアートと呼ぶことができるかもしれないし、その枠組みや定義をめぐる込み入った話もあるらしい。けれど、たぶんだが、とりあえず重要なのは、そうしたことではなくて。こうして素材が飛び出てしまったからといって、難しいことをしようというわけではないらしいということだ。考えてみれば、かつては絵の具で花を描かなければならなかったところに、今では普通に生花を置いても作品になるということだろう。けれどだからと言って、生花に難解さはどこにもない。
あるのは花のうつくしさばかりのはずで、誰でもふとした時に感じるものの一つかもしれない。そのはずだろう。


けれどそれは、素材がちがっても同じうつくしさがあるということでもない。実際、たぶんだが、描かれた花と、実際の生花との間には、それを見て触れた時に得られる感覚は違うものだろう。描かれた花には、絵の具の筆遣いや色使いが息づいているし、生花には花の種類や鮮度やその傾き、匂いがつきまとうはずだからだ。どちらも同じ花である、けれどもキャンバスを飛び出したところには、また違う新しい感覚が宿っているかもしれない。そのはずだろう。



この二つは矛盾しているようだけれど、そうではない。なぜならこれらは一般論だからで、一般的に同じであり、また一般的に違うということもありうるということだ。一般論とは、AもBも一緒くたにしてしまうから、そういうことになる。


では果たして本当に同じで、あるいは違うのか。それは作品を見なければ感じることはできない。それは一般論ではなく個別論で、そこにこそ個別の作品の体験が宿っている。そこでは、新しかったり、懐かしかったり、そうでなかったり、そうであったりするだろう。そうであるか否かは、すべて作品それぞれにかかっている。
だから、ここに書いたようなキャンバスから飛び出して以降の、1960年代から21世紀10年代までの最先端の作品が山盛りになっているかのような芸術祭では、ただの時代論にまかせるのではなく、一つ一つの作品に触れて、見て、聴いてみなければならない。そしてその感想は、決められた誰かが言うのではなく、花を見て、花が描かれた絵画を見て思うことと同じく、見た人各人で異なるものであっておそらく構わないはずのものであるだろう。




* 

札幌国際芸術祭おぼえがき4

参加や協働を謳うリレーショナル・アートの奥底からむしろナムジュン・パイクを祖の一つとするようなメディアアートの最先端の現場へと引きずり出されたようなSIAFの会場とは、しかしつまり札幌であり、そこを歩くことは同時に札幌の街を歩くことに他ならなかった。


これほど札幌の街を東西南北と歩き回ることは、そうない経験だろう。札幌駅の階段を上がってからあとは、南北に通る目抜通りから大通公園を西に、ススキノの中心部を縦断し、川を渡ってゲストハウスまで行く。走り回る市電を眺めて朝食を探し、東急ハンズの側で夕食を求め、いくつものコンビニエンスストアでコーヒーにチキン、ソーセージ、コーヒー・・・
普段の旅行なら、大通公園をゆったり歩くか、時計塔の足元まで赴くか、ビール園でジンギスカンをむさぼるか。そうしたルーチンに終始しそうな札幌への旅は、むしろほとんど住人とかわらぬ生活に収まって過ごした。




札幌の南側、都市部が途切れそうな南端にトオン・カフェという小さなギャラリー兼カフェ・レストランがある。店内はカウンターと机がいくつか、奥に展示スペースのある場所についたのは、水曜日の夜8時ごろだったと思う。客は一人で、展示を見に来たけれど疲れたのでコーヒーをくださいと言って、その後どういう会話でそうなったのか覚えていないけれど、お店の方から話を聞く、というより、話をする、ようになっていた。明日は芸術の森モエレ沼に行く予定で、というと、時間配分のことなどを経験から教えてもらう。資料館にあった熊の展示がすごく良くて刺激を受けた、というと本を持ってきてくれて、たくさんの熊の彫刻についてあれこれ品評して、そういえばあの展示はロンドンにある、デザイン美術館でもあるヴィクトリア&アルバートミュージアムによく似ている、学生やそうした仕事をする人も参考になるはずだと思ったことを、思い出したりした。
札幌街中の展示はどうですか、と言われて、激しいノイズが多いけれど、鈴木さんの「聴く」作品などが好きな人なら、きっと受け入れられるのではないかしら、などと本棚の上に置かれていた「WIRE」の表紙を眺めながらいう。



壁際に置いてあった新聞を眺めると、軍事問題についての時事項目が多くあった。そういえば今年のアート評論を眺め、最近の動向と傾向を学んだつもりになってみれば、今年の最大のトレンドはドクメンタで、一つの展示を見るのに30分はかかる、コンセプチュアル・アート政治的主張の合わせ技と言われているような膨大な展示群に欧州の人たちが押し寄せているという。
たしかに、難民、環境、欧州連合危機、政治つまり独裁と民主主義、弾圧、宗教、暴力、政治や社会問題には、もちろんあれこれ考えることはある。
そう思って新聞を閉じて、煙草の火を消した。


それから再び、芸術祭の会場へと戻ることにする。






札幌国際芸術祭おぼえがき3

パイクから始まって(フルクサスを経由する)21世紀への旅。


1

札幌国際芸術祭2017でまだ情報出てないヤバいイベントはまだまだありますが、とりあえず9月2日の刀根康尚「AI DEVIATION」は強烈にオススメします。複数の刀根AIによるライブ。60年代からの実験に時代が追いついたと感じます

1935年生まれ。作家、批評家、作曲家。1960年代初頭、「グループ・音楽」を共同で設立。1962年よりフルクサスで活動。1972年より渡米、ニューヨークやヨーロッパにおいて電子音楽の実験的な動向を巻き込みつつ、数々の重要なイベントを主催、参加する。「パラメディア・アート」という概念を提唱、作曲家として、電子音楽、コンピューターシステム、映画、ラジオ、テレビ、環境芸術といった多様な領域で作品を発表。



2
ジョン・ケージの《ミュージサーカス》について —足立智美(インタビューより)

2012年11月1日
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—《ミュージサーカス》って?

今回、足立区千住にある東京都中央卸売市場足立市場(以下、足立市場、市場)で、ジョン・ケージの《ミュージサーカス》を演奏します。この《ミュージサーカス》は、さまざまな演奏者やパフォーマーが、会場の各所に配置され、そこである決められた時間に、それぞれの独自な演奏・パフォーマンスをし、それを観客・聴衆が自由に観て、聴いて回るというものです。

わたしは、以前にも《ミュージサーカス》に関わったことがあるのですが、その時は室内で演奏しました。その時の経験から、これは閉ざされた空間でやるのではなく、屋外でやるのが適当なのではないかと思っていました。たまたま、昨年、「アートアクセスあだち」で、わたしの作品《ぬぉ》を足立市場で演奏した時に、場所による残響、反響の違いがあるここが、《ミュージサーカス》の演奏には適当な場所だと気づいたのです。

実は、《ぬぉ》の前半部分などは、《ミュージサーカス》を意識してつくったので、形としては似かよっています。つまり、市場内の各所に散らばった演奏者が演奏をするのです。ただ、最後には演奏者が1か所に集まってきて終了します。

《ミュージサーカス》では、人と人がいっしょの時間を共有はしますが、お互いはバラバラなピースのままで、そこには「関係」がないわけです。一般的な音楽演奏の、「いっしょに何かをやる」という要素がまったくないのです。つまり「音楽の喜び」としてこれまで考えられてきたもの――たとえば、「ここがうまくできた」というカタルシスや達成感のようなものは、《ミュージサーカス》にはないかもしれません。

リハーサルもしない。会ったこともない人たちが集まって、他の人たちが何をやっているかにはまったく関係なく、それぞれが「自分のやるべきこと」をやる。「なんで自分はここにいて、これをやっているんだろう」という疑問さえ浮かんでくるのです。ですから、そこでは「精神力」が要求されるのです。それはまるで修行のように思えるかもしれません。

演奏者・パフォーマーと聴き手の「体験」は、かなり違います。演奏者・パフォーマーは、他のパフォーマーの音が聴こえていても、聞かないようにしなければならない。ところが、聴き手はそういうことを考える必要はないので、気楽です。その落差は非常に大きいのです。となりどうしの演奏者・パフォーマーは、その演奏・パフォーマンスに関して「競争」する必要はまったくありません。お互いに競争してしまうと、一つの方向性、関連性が出てきてしまうからです。同じ場所にいるけれど、お互いは独立している。それが「世の中」というもののモデルだ、とケージは言っています。


—「作品」ではなく「アイディア」

《ミュージサーカス》は、1967年に発表されました。もともとは、それ以前のケージ自身の作品を同時に演奏するというものでした。ですから、最初のころの《ミュージサーカス》は、ケージの作品のみの演奏から成り立っていましたが、次第にアイディアが広がっていき、やがて、誰のどのような作品を演奏してもいい、どんなパフォーマンスをしてもいい、ということに変わっていきました。

《ミュージサーカス》には、いわゆるスコアなどの「楽譜」はありません。説明や指示を記したいくつかの文章があるだけです。

“Some years ago … we gave a Musicircus … in a large gymnasium. We simply had as much going on at
a single time as we could muster. And we exercised no aesthetic bias. … You should let each thing that
happens happen from its own center, whether it is music or dance. Don’t go in the direction of one thing
‘using’ another. Then they will all go together beautifully (as birds, airplanes, trucks, radios, etc. do).”
John Cage
“何年か前、ミュージサーカスを大きな体育館でやりました。私たちは単に集められる限り多くの事柄が
同時に進行するようにしました。そして美的な好みを介入させませんでした。音楽であれダンスであ
れ、あなたのすべきことは、すべてがその中心にあるように、物事を起こるがままにしておくというこ
とです。他の人を「利用する」ような方向にいってはいけません。そしてすべては美しく共存していく
のです(鳥や飛行機やトラック、ラジオなどがそうであるよう。)“
ジョン・ケージ(訳:足立智美

ですから、《ミュージサーカス》は、「作品」というよりは、「アイディア」と言ったほうがいいでしょう。

また、「サーカス」という言葉は、「曲芸的な何かを見せる」ということではなく、「演目が同時に何か所でも進行する」という意味です。たとえばレストランで、自分のテーブルではこういう話をしているけれども、隣りでは違う話をしている。隣りの話を聞こうと思えば聞くことができる。そういう状態のことです。また、現代の東京では、各地で演奏会がたくさん開かれていますが、その「壁」を取り払ってみよう、というような考え方に近いのです。

演奏者・パフォーマーは「会場の各所に配置され、そこである決められた時間に演奏・パフォーマンスをする」のですが、その開始時間、演奏場所は、基本的には、サイコロのような、偶然に左右されるもので決めます。

今回はまず、足立市場の構内図(地図)を用意しました。この地図中の、使用可能な範囲の中に、1から64まで、64個の数字を振ります(図参照)。この数字の位置は、足立市場の構造を勘案して、観客・聴衆が入って行きにくいような「死にスペース」ができないように、私が考えます。

ちなみに、「64」という数字は「易」の、「八卦」を二つ重ねた「六十四卦」に基づいています。そしてコンピューターで「乱数」を発生させ、それを使って、その64個の中から演奏者・パフォーマーの配置を決めていくのです。位置が決まったら、次に、それぞれの奏者がどの時刻から演奏を開始するか、ということを決めます。これも、全体の時間、つまり今回は2時間を64分割して、1コマあたり2分弱という単位で分けて、どこから始めるという時刻を乱数で決めます。

ですから、ある時間帯のある場所では誰も演奏していなかったり、逆に複数のグループが同じ場所で同時に演奏している、という状況も生まれるのです。


—楽しいことをやりたい

参加者(演奏者・パフォーマー)は、プロフェッショナルであるかアマチュアなのかは問いません。それは、先ほど言及した指示書の中に演奏者に関する指定がないからです。演奏・パフォーマンスをするのは大変ですが、逆に、誰でもできるのです。それはたとえばケージの《4分33秒》の演奏は誰でもできる、ということと同じです。

一般的に「音楽」は、快楽であったり、記憶と結びついたりという、情緒的な面が大きいのですが、それとはまったく異なる世界が世の中にはある。しかしそれを音、音楽でつくることができれば、その喜びを共有できる可能性がある。それは、実際にやってみなければわからないのですが。そういう感覚が見つけられればいいと思います。演奏者自身が楽しんで演奏・パフォーマンスをしてもらえれば嬉しい。辛気臭いこと、まじめくさったことはやりたくない。祝祭的で、賑やかで、少し非日常的で楽しいものをやりたいのです。


—楽器があまり弾けなくても音楽はできる

わたしは小さなときから楽器をやっていたわけではなく、ピアノをほんの少しだけ習いに行っていたことがある程度です。しかし、中学生の終わりくらいに、自分は音楽やる、ということを決めて、それからピアノの練習をまた始め、その後、吹奏楽部でパーカッションをやり、エレキ・ギターを買い……と、同じ楽器を継続的にやるということがなく、どの楽器も上達しませんでした。

けれども、音楽というものは、楽器があまり弾けなくてもある程度はできるのだと思います。わたし自身、音楽家になるためのプロフェッショナルな訓練は受けていないけれども、音楽家になりました。

《ミュージサーカス》でも、去年演奏した《ぬぉ》でも、基本的には楽器がうまくなくてもできるのです。その人のレベルで演奏できればいいし、それでも出てくるものはプロがつくる音楽には劣りません。

わたしは、今回の《ミュージサーカス》を含めて、「そろわなくても面白い音楽」をつくりたいのです。一人ひとりの人間が生み出す音が違うのは当然なので、そのさまざまな音が同時に鳴ることで、それが豊かな響きを生み出すような音楽をつくりたいと思います。

誰のほうがうまいだの、へただの、と言うけれども、誰でも時間をかけて練習すればうまくなるし、誰でも高い楽器で弾けばいい音になったりするのです。つまり、時間と金の問題に過ぎなかったりする。楽器のうまい、へたはどうでもいいことなのです。

 (インタビュー/構成 早川元啓)



3
フェスティバルFUKUSHIMA! 2012
Flags Across Borders
2012年8月15日(水)〜26日(日)

2012年、今年の『フェスティバルFUKUSHIMA!』は8月15日から26日までの12日間、福島県内のみならず、国内・海外各所での100を超えるフェスティバルの同時多発開催を目指します。フェスと言っても個人で出来るようなささやかなものから、いくつものバンドが出るような大きなフェスまで、音楽以外にも、アート、演劇、映画、ダンス、パフォーマンスといった様々な表現、対話やトークセッション、シンポジウムやスクールまで、形にはこだわりません。

今年のテーマは「旗」。タイトルは『Flags Across Borders』(旗は境界を越えて)です。Fukushimaをめぐっては、これまで多くの人びとが対立し、自分の「旗」を立ててきたように思います。でも、そんな旗という旗を一堂にはためかせたらどうなるでしょう。わたしたちは想像します。無数の旗は立場の違い、境界線、国境を越え、わたしたちを結びつけてしまうのではないかと。

同時多発的に展開されるフェス、無数の旗、これらによって何が起きるのか、やってみようじゃありませんか。

「未来はわたしたちの手で」。これは昨年同様わたしたちの変わらぬ思いです。この思いに、みなさんが自分の思いを重ねてゆくことでより大きな広がりとなりますことを。


8月15日 オープニング
「Flags Across Borders」

福島市内の駅前通りを中心とした区間で、午後3時から5時の間(予定)、旗とオーケストラのイベントを開催します。昨年「四季の里」に敷かれた6000平方メートルの「福島大風呂敷」を使って、何百、何千という旗を作ると同時に、大風呂敷が市内の各所に敷かれ多数の旗が掲げられます。旗はひとつとして同じものはありません。形も柄も自由なら、なにを書き込んでもいいし、なにも書き込まなくてもいい。カラフルな大風呂敷が街を彩る中、旗をもった1000人を超える人たちが福島市内の商店街を埋め尽くすところからフェスがはじまります。オーケストラは昨年「四季の里」で行われた「オーケストラFUKUSHIMA!」のさらなる拡大版(目標参加者数:数百人)を目指します。音の出るものさえもってくればオーケストラにはどなたでも参加できます。今年は見るフェスティバルではなく、誰もが参加でき、会場にいるみなが出演者、そんなフェスティバルを考えています。


8月15日〜26日 
「世界同時多発フェスティバル」

あなたも自分の手でフェスティバルを企画してみませんか。
この期間中は誰もが『フェスティバルFUKUSHIMA!』を開催出来ます。形も大きさもこだわりません。大きなフェスである必要はありません。ライブハウスやクラブでのイベントから、身近な場所でのささやかなパーティートークセッションまで、あなたに出来る等身大のものでかまいません。
条件は3つ。「Fukushima!」をキーワードにすること。8月15日のオープニングで使われた旗、または自分たちで作った旗をなんらかの方法で掲げること。そしてわたしたちのサイトでエントリーすることです。
公式サイトでは、各地のフェスの様子が逐一見れる仕組みを工夫する予定です。エントリーは随時受け付けます。期間も多少前後してもかまいません。福島に住んでいる人たちも、福島から別の場所に移った人たちも、福島に直接縁がない人たちも、これを機会に何かをやってみませんか。わたしたちもこの期間は「旗」とともに各地を駆け回ってみようと思っています。ひとつひとつは小さいけれど大きな広がりをもったフェス、そんなことをわたしたちは考えています。


8月26日 クロージング
「マッシュルーム・レクイエム」

福島市の「四季の里」とジョン・ケージ生誕100年を記念したイベントが行われている東京のサントリーホールを映像で結んでの公演です。夕方から日没にかけて四季の里では、きのこの形にならべられた何万本もの光るオブジェが灯り、美術家・遠藤一郎や千住フライングオーケストラの手による何百もの光を放つ連凧が上空に舞う中、200名を超える「オーケストラFUKUSHIMA!」のメンバーにより大友良英作曲作品「マッシュルーム・レクイエム」(Mushroom Requiem)の演奏が行われます。基本はFUKUSHIMAのF(ファ)の音と、ジョン・ケージJOHN CAGE)のC(ド)の音のみで構成。この映像は「DOMMUNE FUKUSHIMA!」によりリアルタイムに東京に送られます。サントリーホールでは福島の演奏に呼応する形で会場内に投影される福島での演奏にあわせて、参加者により「マッシュルーム・レクイエム」の同時演奏が行われます。これはジョン・ケージの作品「ミュージサーカス」(Musicircus)の一部にもなっていきます。さらに、これらの配信映像を使って世界各地での同時多発演奏も目指します。複合的なアイデンティティをもった作品が様々な境界線を越え、福島から世界に響きわたります。

※『マッシュルーム・レクイエム』については日程と場所は決定ですが、内容や時間帯については今後多少変更される可能性もあります。6月中には詳細を決定し、あらためて発表する予定です。


福島駅前や四季の里の放射線の問題についてのわたしたちの考え方

福島市の駅前の野外の放射線量は0.5〜1μSv/毎時程度。これは福島第一原発事故前の数倍〜十数倍程度の線量です。四季の里は0.2〜0.6μSv/毎時程度。これも決して自然の状態ではありません。そして、ここに多くの人を集めることに賛否があるのも事実です。わたしたちも「安全」という言葉は使いません。

そのようなときに、ここには来たくないと思う人がいるのも事実だと思います。わたしたちはその気持ちを否定するつもりはありません。怖いものは、誰になにを言われようと怖いですし、リスクを減らしたいと思うのは当然の気持ちであると思います。わたしたちは、実際にFukushimaに来るかどうかが一番大切なことではないと思います。Fukushimaという場所を超えて、人びとの輪が広がってゆくことを望んでいるのですから。

ただ、もしFukushimaのことを思ってくださるのであれば、忘れないでいてほしいことがあります。それは、ここで暮らしている大勢の人たちがいること。そして、日常をおくる中で、自分たちが置かれている現実を充分に理解した上で、この現実に立ち向かおうとしているということをです。放射線の問題をどのように考えるにせよ、Fukushimaに来るということは、そのような人たちに会いに来るということなのです。


出演:オーケストラFUKUSHIMA!、大友良英遠藤ミチロウ和合亮一坂本龍一二階堂和美テニスコーツU-zhaan勝井祐二、遠藤一郎、中崎透、アサノコウタ、ハタさん、千住フライングオーケストラ、フラッグ・アンサンブルズ ほか



4
2017年への旅。


Circus without Circus - Yuko Mohri 毛利悠子個展−沒有馬戲的馬戲團

Project Fulfill Art Space 就在藝術空間
2016/07/16 に公開


Project Fulfill Art Space is honored to invite renowned Japanese artist YUKO MOHRI to participate in our June exhibition. Circus without Circus will be her first solo exhibition in Taiwan.


The title of this exhibition discloses the kernel idea of Yuko Mohri’s current creation, which is inspired by Musicircus, a piece created in 1967 by John Cage. To create this piece, Cage brought together several musicians of different genres (e.g. piano, vocal, electronic, dance, etc.) and made them perform at the same time. Although the layout of this “orchestra” was well-coordinated, the performance was, in appearance, unorganized and aimless. Yuko Mohri used to present one artwork at a time in previous exhibitions. However, in Circus without Circus, the artist takes a trot through her oeuvre. She will assemble several previous installations and establish ties among them to create a circus. It is a breakthrough of her creative pattern and a refining of her oeuvre. This solo exhibition at Project Fulfill Art Space will thus be an important challenge and a turning point for Yuko Mohri.


(by google translator
この展覧会のタイトルは、John Cageによって1967年に作成されたMusicircusからインスパイアされたMohri Yukoの現在の作品のカーネルのアイデアを公開しています。 この作品を制作するために、Cageはさまざまなジャンルのミュージシャン(例:ピアノ、ボーカル、電子、ダンスなど)を集め、同時に演奏しました。 この「オーケストラ」のレイアウトはよく調整されていましたが、そのパフォーマンスは外観上、未編成で無意味でした。 モリユウコは以前の展覧会で一度に1つのアートワークを発表しました。 しかし、サーカスのないサーカスでは、アーティストは彼女の作品を見ている。 彼女はいくつかの以前のインスタレーションを組み立て、サーカスを作るために彼らの間のつながりを確立する。 彼女の創造的なパターンの画期的なものであり、彼女の作品の洗練です。 このプロジェクトの充実したアートスペースでの個展は、モウリ裕子にとって大きなチャレンジとなります。)



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就在藝術空間六月份展覽很榮幸邀請到日本知名藝術家——毛利悠子(Yuko Mohri),這是她首次於台灣舉辦個展,展覽命名為「沒有馬戲的馬戲團」(Circus without Circus)透露出毛利悠子本次的創作核心,靈感來自於約翰・凱吉(John Cage)於1967年創作的《音樂家們》(Musicircus),他邀請了不同類型的音樂家齊聚一堂同時演奏,包括鋼琴、聲樂、電子音樂、舞蹈等等,儘管位置經過安排規劃卻呈現一個漫無目的演出狀態。毛利悠子的展覽往往一次只展出一件作品,但在「沒有馬戲的馬戲團」中,藝術家重新審視自己作品,將於畫廊空間中集合數件過去不同的裝置,串聯組構成一個馬戲團,突破以往的創作形式並且嘗試讓他們變得更加精練,本次於就在藝術空間的展出對毛利悠子來說將是一個重要的挑戰及轉折點。



札幌国際芸術祭おぼえがき2

気になったので、ナムジュンパイクの経歴を調べてみようとしたら、たちまちに膨大な人名と情報量で停止した。まず同級生の山口昌男、そして師シュトックハウゼン、ケージ、フルクサス赤瀬川原平、東京ミキサー計画、ワタリウム、テレビアート、ビデオアート、サテライトアート、ロボットオペラ、メディアアート
とりあえず検索したウィンドウを閉じて、ついでにフルクサスについても検索してみる。始まりは国際音楽祭で、日常品をステージにあげるイベントをやっており、出発はドイツで拠点はニューヨークだが世界中でツアーをして、関係者はヨーゼフ・ボイスジョン・ケージ赤瀬川原平武満徹刀根康尚
とりあえず検索したウィンドウの前でしばし人名リストを凝視した。何も終わっていないし、まだ歴史になっていないじゃないかと。




札幌国際芸術祭おぼえがき

かつて日本に滞在し、赤瀬川原平らとともに1960年代の日本の前衛芸術を展開した一人であるナムジュン・パイクは、1993年、ハンス・ハーケらとともにヴェネツィアビエンナーレ・ドイツ館に参加した。そこでハーケが作り出したのは、床一面が叩き壊され、壁に「GERMANIA」と文字が記された巨大な廃墟であり、その展示は金獅子賞を受賞するのみでなく、そのスペクタクル性や建築、政治(ヴェネツィアビエンナーレは元もとファシスト政権下で始まった、それを指摘する「政治+歴史的な正しさ」が込められている)、生と死、廃墟といった様々なテーマとモチーフで、おそらくは現在のアートシーンを決定付けるほどのインパクトを与えたといえよう。以降、現在まで、ビエンナーレトリエンナーレといえば、目を奪う巨大な大作や派手なパフォーマンス、社会批評や政治的立ち位置の思考と表明の展示のごとくと化している。


そうしたおぼろげなイメージを持って札幌を歩いていった時、実際に見たのは、部屋や建物に手が加えられたと言う展示ではそこからの連続性を感じながら、だが政治や廃墟や死の気配らは奪われた、生ける空間のごとくの景色だった。何より、スペクタクルにありがちな廃墟の組み合わせではなく、そのどれもが(少なくとも大半は)動いていて、写真に収まれば納得されるようなものはどこにもない。まして音の展示のごときの趣きは録音された音源をスピーカーから鳴らすという類のものではなく、作品の素材そのものが立てる響きが「音」であり、それゆえにすべては動いていなければならない。死のスペクタクル、固定し沈潜した景色など、ここには何処にもなかった、その理由だろう。


そう思って、再び1993年のヴェネツィアビエンナーレのパイクの展示を検索する。テレビのガラクタを野外の庭に並べ、他の色とりどりの布や服とともに笑っている作家の写真がたくさん出てくる。ハーケとともに、あるいはハーケの隣で、パイクは全く違ったジャンクと笑いを展示していた。もし仮にこの93年を現在の芸術祭に至る転機と位置づけるならば、これまで伏流水のようにもぐっていた別の線分があることに気づかされる。その線分は、それ自体が芸術祭の作品となっているモエレ沼のガラスのピラミッドの頂上部に置かれていたパイクのロボットにそのまま接続されるだろう(しかもそれは、いちど足を折った初号機ーまさに1993年に製作されたーを改良して、再び立ち上がったものなのだという)。
「芸術祭ってなんだ?」という札幌国際芸術祭のテーマについて、私たちはそれをハーケの方向から、つまり芸術祭が持っている様々なコンテクスト批評として、私たちなりの答えを口にすることもできる。だが実際に歩いて、見て聞いて感じたのはそうしたことではない。むしろ芸術祭なるものが持っている、もう一つのポテンシャルがあらわになっている姿であり、つまりは問いかけに作家たちが全力で提示した答えを、そこに見て取ったように思えた。




11月27日、大宮。

1
雨の予報というのは嘘だった。空は快晴で日が差していて、校門の向こうの校舎の中庭では、すでにブラスバンドの演奏が始まっていた。パーカーやキャップやカーゴパンツといった小学校の風景に似つかわしくない服装をした人々が、校門の近くや、もっと手前の道路にかかる歩道橋の階段に立って、ぼんやりとブラスバンドとそのすぐ前に座した、先生や生徒や家族や友人知人といったらしき客席の光景を眺めていた。


脇を見やれば音響係がおり、マイクを握った女性も控えていた。演奏が終わるとブラスバンドの生徒たちが(どうやら中学生らしかった)、ぞろぞろと退出させられ、かなりの人数が晴天の下で校門の方まで押しやられてきた。みな楽器を持ったままで、終わった安堵か、成果についての不安と期待か、解けきらない緊張か、ぼんやりした表情で肩を揺らして立っている少年少女たちの姿は、解釈を拒むものがあったかもしれない。マイクを握った女性が、マイクを帽子をかぶっている有名な音楽家らしい人物に譲ると、何かが発話されたが彼らは聞いていないようだったと思う。だが、しばらくすると、その発話の内容が彼らを再び集合させようとする号令であるらしいことがわかり、彼らの大半は再び先ほどの演奏場所へと戻っていって、残ったものは面倒そうに歩道橋の階段に客に混じって観戦を気取ろうとしていた。集団は、校舎と、校門を外れた向こう側の歩道橋に分かれた。


そこから始まったコンダクションは、その集団の分かれ方から、それまで見たことのないものになった。一方は中庭、一方は歩道橋の中空にいて、コンダクションはその双方にめがけて発信された。展開はほぼその場で決まっていったが、中庭に集まった管楽器と打楽器、鍵盤楽器に対して、歩道橋の階段側には管楽器だけが軍楽隊かのようにラッパを響かせて音響は空中を横切っていく。コンダクションの説明がそのまま演奏へと展開し、一つの合図が演奏になり、また別の合図が演奏になり、それが連なりあって即興のオーケストラのコンポジションを作り出してゆく。あるひとつの音楽が、ループする鍵盤や打楽器のリズムに、ほぼ真逆の位置からラッパ群がメロディを乱雑に繰り出してゆくなか、ゆるやかな混乱状態として街路と校舎をまたぐ空間上に形成された。まるで乱痴気なリゲティの『プロメテオ』を思わせるその特異な音響空間は、これから始まるアンサンブルズの幕開けに、まさしくふさわしいものだった(*1)。




2
2016年の11月27日だった。大宮の小学校で、埼玉トリエンナーレの一環としてアンサンブルズ・アジア・スペシャルが開催された。企画開催を務めるスニフ、チーワイ、大友にくわえて、チェンマイのアーノント・ノンヤオ、バンドンからデュト・ハルドノ、東京から牧野貴が参加、ワークショップとパフォーマンスを繰り広げた(*2)。


会場は、小学校の校舎というよりはその奥にある体育館で、コンクリートの階段を上り、土足は脱いで会場に入ることになっていた。会場内は、体育館から想定される明るさはいったん排除され、薄暗い屋根付きの展示倉庫といった風情で、壇上は緞帳が下され、すべての装置や器具はむき出しの床の各所に点在して配置されていた。外気が壁や窓から伝わってくる寒さに室内は満たされており、さながら体育館の廃屋というべき場所で、すべては進行した。




3
パフォーマンスと展示という点からすれば、その重点はパフォーマンスにあっただろう。場内各所に置かれた品々はそれ自体でも一種異様な展示作品という見た目もあったが、順次そこに参加者が手を入れ、装置を作動させることでパフォーマンスがおこなわれ、それによってゆるやかに企画は進んでいった。
一方で、そこにはあまり明確な起点と終点を持たず、具体的に起承転結を感じさせることのあまりない形で、個々のショーケースというよりは全体が一つの大きな形を作り出していくという性格が強かったように思う。むしろそうして形作られる一つの流れが、アンサンブルズということになるのだろう。(なお、こうした印象には、特定のステージが用意されず、場内各所で順次おこなわれていったという点も強く作用していただろう。またいわゆる「客席」も用意されず、観客は立ったり床に直に座ったりして鑑賞したり、あるいは時間をつぶしたりした。出入りも自由であり、ふと出ていって、また適当に戻ってくることもできた。*3)


一方で、ショーケースとしてみれば、しかしそれは「アジア」という性格を強く感じるものではなく、アジア各域にいる音を素材として用いる芸術作家たちが集っているという感じだった。むしろ、実際の点からすればアジア全域を含めた地域で今や広く美術や音楽の情報は共有・流通されており、サウンド・アートやインプロヴィゼーションをふくめて、そこにアジアらしさを追求しようという方が間違いなのかもしれない。

実際、ノンヤオのパフォーマンスは映写機と若干の装置を追加して映像を投影しつつノイズを発生させるものであり、下りた緞帳に投影される光の円や斜線と操作が引き起こすアナログなグリッチというべきノイズが、不規則に合致しないまま繰り広げられた。そこには、少なくとも理論的な点でのノイズ、音響、視−聴覚に関する表現上の問題が組み込まれていたといっていいように思われた。
またハルドノの古い録音テープを用いた大掛かりな演奏は様々なループに突如発生する巨大な炸裂音のようなノイズで、おそらくテープに施された加工が偶然に引き起こす雑音を引き受けつつ操作しつつ展開された。ここでも、やはりかつてのグリッチや偶然性、音声と記憶、複製と現在といった多様な問題が折り重なっており、今やそうした問題について地域を分けることなく向きあう時代が来ているのだと、無遠慮なまでの轟音で会場全体が振動する様に、そうした21世紀の現在を感じたりもした。




4
ただ、しかしながらこうした曖昧な印象を突き抜けて残る感想としては、事前に行われたらしいワークショップの成果やその作品が素晴らしかった。とくに、ハルドノがおこなったワークショップ参加者による声のパフォーマンスは、埼玉から関東にまたがる鉄道路線を数えながら、駅名を呼ぶことがそのまま歌に転化するという仕組みで(単純化して言えば人力テープループというところだろう)、数人ごとに異なる路線を追いながら重ねられる駅名の呼び声は、チャーミングなモワレといった形で、その場所と参加者の複数性を思わせた。


また、ノンヤオのワークショップで作られたとされる加工された自転車は、電力のない自転車に電子ノイズの発生する機器をくくりつけ、サドルを回転させるごとに各装置がおびただしい雑音を撒き散らしていくもので、すべてのパフォーマンスが終了したあと、立ち去る観客の眼の前でぐるりと体育館内を周遊し、さらに会場を出て道路や屋外で走り回り続けた。すでに日が落ちかけた校舎とその周囲の路上で、蓄電された電力が尽きるまで続けられたというそのノイズ自転車の姿は、ユーモアとどこかノスタルジーを帯びて強く印象に残っている。


中でも特記すべきは、牧野による映像作品だった。小学生の低学年との共同で作成されたというフィルム作品は、むき出しの空のフィルムに小学生たちが直接、インクやペンで自由に書き込みをして、それをそのまま上映するというものだった。1秒24コマの高速回転で、ほぼその書き込みは視認されないが、ここには彼らの考えた美学的な意識が反映されています、という事前の説明で内容は理解された。
だが実際に上映された作品はそうした説明をはるかに裏切るものであり、高速度で変化する点描と色彩の塊が、点滅とうねりをもって蠢めく巨大な流体のようなイメージとして展開した。瞬時に現れては消えるいくつもの黒い点、上下から角度をためらわずに放り出される赤や青やピンクの絵の具の固まり、激しく明滅しながら情報量を変えていく斜線群など、それらが前後左右から出現して折重なり、ちぎれて姿を消していく間に登場した。それは色彩豊かなハイファイのグリッチであり、また膨大な情報量と多様性は高度なアートというべき奥行きと力強さを持っていたと思う。言い換えれば、フィルムに直にインクを書き込む作品は過去にあり、また作者も明滅と点滅を主とするノイジーなフィルムで高く評価されているとしても、しかしここで上映されたものはそれらにさらに様々の感性と、色彩と、こう言ってよければ作品を創造する楽しみといったものが、線と色と躍動感として表れていた。それは、ただの作品の枠を超えた集団による創造行為の持つ、温かさや豊かさを示していたように思う。


透明なフィルムに書き込んだものが8分、モノクロのフィルムに線を刻んだものが8分、さらにそれらを合わせたものが8分と、およそ20分強続いたその上映は、まさに息を呑むものであり、ただ圧倒されるだけだった。ワークショップというと、どこかちょっとした娯楽という印象を拭えないが(*4)、ここでの作品はそうした常識を裏切って屹立しており、様々なインプロヴィゼーションといった音楽に偏りがちなこの企画全体を、アートのトリエンナーレにふさわしいものとして位置づけさせるのに十分であったように思われた(*5)。




5
まだ様々な事柄には整理がつかない。特にワークショップの意義とその成果については、他の様々な問題もふくめ−そこには冒頭のオーケストラも含まれる−もう少し感想を続けてもいいかもしれない。芸術、ノイズ、即興、地域、様々にまとまらない感想をもったトリエンナーレだった。
最後には、上述したようにそのワークショップで製作されたノイズ自転車が会場内を走り回り、そして場外へと飛び出していった。それを追いかけて外へ出てみれば、すぐ側の駐輪場で輪を描くようにノイズ自転車が走っていて、雨が降っていた。



雨が降る、というのは嘘ではなかった。それを確認して路上へ走り出していく自転車を追いかけると、いつのまにか会場だった小学校の校舎をあとにしていた。








*1 もう少しだけ叙述しておけば、この日の即興オーケストラはブラスバンドによる不協和音のクラスターに、いくつものメロディがそこかしこで繰り出される形で進展した。奏者については、中学生だけでなく小学生も混じっている一方で、客席から一般の参加者や、また音楽の先生(と思われる)なども参加していた。演奏については全員が一定の訓練を受けていたためであろう、不協和のクラスターは、しかし確固とした音の持続をもって支えられており、参加者全員が思い思いに放つ持続音が形づくる硬質の不協和音に強い印象を受けたことを付記しておきたい。また、同日午後にもワークショップが行われたが、そこでは声の使用(かけ声を出す、というサイン)も用いられており、昨年のフェスティバルフクシマ!で見出されたと理解している、多声によるコンダクションがすでに自家薬籠中となっていることに驚くとともに納得した。
一方、空間性に関して言えば、音響空間については以前に書いたことがあり、また書くことがあるかもしれない。とりあえずこれについては、今年の10月15日の出来事について付記しておこう。


同日は池袋の芸術劇場でプロジェクト・フクシマ!が主宰する盆踊り演奏・パフォーマンスが行われ、今年で3回目になるこの企画に足を運んだ。個人的には例年の密かな楽しみであり、特に初年の寒空で降雨の状況で6時間強おこなわれた演奏は、そこで観覧していた海外からの観光客がついに踊りの輪に入っていく光景で忘れがたいし、去年は安定した演奏と踊りが力強さを感じさせて興味深かった。
今年もまた同様で、特に新しく設計・設置された櫓は十分な機能性をもち、踊りの指導から展開まですべてが完成された趣を持っていた(付け加えれば、この時行われたコンダクションでは、パーカッションを軸としたトライバルな演奏が繰り出され、ダンサブルですらあったグルーヴのある音楽が生まれたことも印象に残っている)。特に個人的には、翌16日、すぐ目の前の椅子で座っていた老人が、ついに後半に耐えきれずに立ち上がって踊り出したこと、また少し足腰の弱い彼がその場を動けずに立って踊っているところに、輪を作ってやってくる踊り手たちが次々と手を取り、ともに踊り、また去っては次の人々が手をつなぐ、という光景は、率直に言って感動せずにいられないものがあった。演奏者には見えなかっただろう、そうした小さな出来事について、ここにメモしておきたい。



だがしかし、音響空間についての記述はこれではない。そうではなくて、15日に演奏と踊りの合間に行われた「ノイズ余興」とされたものである。ここでは、大友、SachikoM、伊東による、巨大なスピーカーを用いた爆音での即興演奏がおこなわれた。
端的に言って、それは会場となる劇場前公園におさまりきらない爆音であり、筆者は演奏開始直後よりステージ間際から離れて劇場前を移動した。途中、すでにステージは視認できない距離からサインウェーブとフィードバックノイズの共鳴に三半規管が撹乱されて目眩を覚え、さらに遠くへ、挙句は道路一本を挟んだ横断歩道を渡った向こう側の街路に立っていた。
すでに何度も繰り返したが、音は目に見えない。だが、たとえ目に見えなくとも、道路を挟んだその街路にあってノイズは空間上を横断して振動していた。じっと耳をすますと、遠くの、しかし別の角度にあるはずのロサ通りで引き起こされた騒乱とパトカーのサイレン(よくある暴力沙汰の結果だろう)が、ほんのわずか浮き出して立ち上がって聞こえてきた。それは、まったく奇妙だが、奇妙な場所での都市と即興演奏の共演だった。かつて、2009年に聴いた以外、つまりアンサンブルズ09での旧フランス大使館での演奏以来、このノイズを聴いたことは一度としてないものだった。




*2 今年の2月に開催されたアジアン・ミーティング・フェスティバルの東京公演を見たのち、シンガポールのSAの来日公演に行った。そのような意味で、今年の冒頭からにわかに(あるいは、ようやく?)アジアということを含めて音楽のあり方を考えるようになった。
率直に言うと、地域で、あるいは、地域から、音楽を考えるということには、まだ若干の抵抗がある。実際、それはどこか地域振興というようなニュアンスを帯びるし、また地域だけを特定して音楽を考えることは、音楽を「地域文化」として捉えることでもあるように思う。端的に言うと、それは音楽を「一地域文化」へと矮小化することにつながるかもしれないという、そうした懸念もある。


にもかかわらず、その後もライブに行ったり、また再びこうした企画に行くようになったのは、その2月の演奏に心を打たれるところがあったからだ。思ったことはいろいろある。例えば、欧米を軸にした即興演奏では、楽器と声は分離して捉えられることが多いが、アジアの即興演奏家は案外とたやすく楽器と声を並列で使うことができ、それが興味深かった。また、いわゆる「即興演奏の専門家」というだけでなく、普通にポップスやアンダーグラウンドなクラブミュージックなどをやっている人々が、むしろ気軽にインプロヴィゼーションに参加することでできる演奏のあり方も興味深い。もっと言えば、そうした声や、また「即興演奏の専門家」の外側のパワフルなアイデアを用いた集団即興演奏は、少なくとも日本で繰り広げられる即興演奏の枠には収まらない部分を多く持っており、それらの様々な要素が非常に説得的に展開していた。このような演奏を実際に目の当たりにしたために、その後も追うようになったのである。


なので、未だにアジアの演奏を「アジアの演奏」と捉えること自体については、少し戸惑いがあるというのが、現在の正直な感想である。ただ、すでにそうした演奏を見てしまった以上、戸惑いがありつつも追いかける範囲は追いかけるだろうし、そうした企画を遠くからながら応援することになるだろう。だがそれは戸惑いを解消するものではなく、むしろ音楽や芸術活動(や非芸術活動)を見る上での刺激としての側面が強いかもしれない。どうやら多くの事柄は、両義的に進むみたいだ。というのが感想になるだろうか。




*3 全体の構成は、次のようだったと記憶している。スニフソロ→ハルドノワークショップ→大友ソロ→ノンヤオソロ→チーワイソロ→牧野ワークショップ→大友・スニフ・チーワイトリオ→ハルドノソロ→大友ワークショプ→合奏(含む上映)。なお終盤のワークショップにはめずらしく自身も紛れ込んだり、途中でスニフ氏と会話などもした。そこで話したグルーヴィーな演奏と観客・環境の関係(具体的にはリズムのある演奏と、それを黙視しがちな観客の関係)については今なお関心がある。




*4 なお、上映に際しては、簡単な3Dメガネが配布され、それをかけて見ることが推奨された。実際、上映中にそれをかけると、立体感というよりはわずかな奥行きが生まれ、とりわけ黒点については波打つように現れては消えていく感触を強くしたという印象を持ったことを付記しておく。
また、上映にあたっては、第一に、単にフィルムが上映されるだけでなく光学録音による音響も同時に出されており、つまりワークショップで加工したフィルムをライブで視覚的・音響的それぞれの形でプロジェクトされていた。その音は、低音が強いノイズとしてかなり速度を感じさせる音響としてあるとともに、作品のあり方としても(とりわけメディアとしてのフィルムをオーディオとヴィジュルアルに分割しつつ同時再生する、という方法において)注目されていいかもしれない。また第二に、そうした映写にあたっては、加工されたフィルムは巻き取ることができず、映写機から直線状に伸ばされたフィルムが2階に控えたスタッフによって丁寧に向きを調節され、そこから映写機まで長く垂れ下がるように伸びていたことも状景として院そう深い。さらに上映中の映写機についても、映像の角度や形態から、映写機の角度や位置を調整しながらの上映であった。この二ついずれも、こうした点で強いライブ感覚があったことも付け加えていいかもしれない(なお光学録音については細田成嗣氏よりの教示を得た。記して謝したい)。


もう一つ、終演後にフェイスブックへの投稿で、作成したフィルムの各パーツをバラして、手を加えた小学生それぞれに返したという作者の記述を読んだことも付記しておこう。そこには、この日に上映された映像がつまりその日限りのものであったこと、ただし全員がフィルムの断片を持っていて、いつかそれを持ち寄れば、ふたたび再演されることがあるかもしれないという旨が記されていた。それを読んで、この日の作品はその前後を合わせて、まさに全員が参加し、一つのものを作り、そしてその欠片を全員が少しずつ持ち帰るという形で、作家と子供たちの時間(過去と現在、未来)を共有するワークショップであったのだと、あらためて深い感銘を受けた。




*5 なお、個々のパフォーマンスについて十分に記述することはできないが、ここで特記しておきたいのは、大友によるギターソロである。近年、特にテレビドラマでの活躍をする前後から、個人的にはあまりソロの演奏に強く焦点を置いて聞くことがなく、また実際の活動も集団の協働に重点が置かれていたと思われていた。しかしここでの演奏は特筆すべき演奏だったように思う。


演奏はいつものように、気楽な風情で始められた。注2の企画でもソロの時間があったが、それと同じように、わずかにグランジの風味のあるノイジーアブストラクトな演奏というところだろうか。特に最近は、ソニックユースの諸氏の演奏との類似性を感じるところが多く、この日もそのようであるかと思われた。


が、途中から演奏の形態は変化し始めた。ディストーションがかかったまま、何度も同じようなうねりを反復し始め、具体的なメロディはないがブルージーな、と言って良いニュアンスを帯びた。そして入り込むのはいつもの爆音のノイズで、軋むような高音と重低音が混じり合った音塊の投射。そこから、合衆国国歌に突入した。
演奏を、文脈から理解することについては、賛否があるだろう。そのことはわかっている。しかしながらこの日の演奏は、まさにその文脈において、したたかに打ちのめされるに十分だった。それは合衆国国歌のディストーションギターによる演奏、つまり1969年のウッドストックにおけるジミ・ヘンドリックスのコピーだった。フレーズを二度ほど反復したのち、もう良いかな、という感じで演奏は終わった。


この場合の文脈は、複数である。一つはいうまでもなく最近おこなわれた、アメリカ合衆国大統領選挙の結果と、それにともなうさまざまの混乱があるだろう。それは単に新しい大統領が決まったというだけでなく、社会の分断や経済・軍事にわたる方針の転換を予期させるものであり、すでに混乱も見られ始めている、そのような事態だ。それは、かつて知っている限りではベトナム戦争の混乱期にあって、合衆国の焼け付くような混乱を描いたとも、戦場の光景を描写したとも、怒りを表明したとも解釈されるヘンドリックスの演奏が再演されるのにふさわしい時期であるだろう(※なお、この企画の11月27日はヘンドリックスの誕生日でもあったが、それがどの程度影響していたのかはわからない)。


一方でそれは、これまでのギターソロや、あるいはジャンル音楽の文脈においても、驚きを禁じえないものだった。これまで様々なジャンルを包摂して行ってきた、ポストモダンからジャズ、フリージャズを吸収して模倣し、批評して行ってきた演奏家が、ほぼすべてのジャンルを横断し尽くしたと思えたはずのところから弾きだしてきたブルース・ロックは、想定もできずに驚愕した。また、必ずしも洗練されてはいない、とりあえず模倣から始めるというようなストレートな演奏にも、驚きを禁じえなかった。そこから瞬く間に逆算される射程、つまり射程としてのブルース・ロックやヘンドリックスの深さに思い至ったが、それについては書かないことにしよう。


そしてもう一つ付け加えれば、それはその直前、前日か数日前かにアップされたばかりのエッセイの結末への、一つのつづきであり、答えのように思われた。そこでは、長い連載で個人史を振り返ったはずの最終回で、分断され始める社会とアメリカのことが描かれ、答えのない、未知の状況に足を踏み入れつつあることが、そのままの形で放置されていた。文章はそこで終わっていたが、まるでその日の演奏は、その放り出した描写のつづき、最終回のそのつづきのように感じられた。そしてその反復された合衆国国歌のフレーズの中に響いていた、今なおつづき、これからも続いていくだろう、文章と音楽の、時代と文脈の、広義の音楽芸術と個人のあいだにある、不可避だが予期できない状況の変化と関係について、あらためて思いをめぐらせるばかりだった。




















ゴルジェの衝撃

 ゴルジェ(Gorge)というジャンルがある。2012年あたりから日本に上陸した(とされる)クラブミュージックあるいはベースミュージックの一ジャンルだ。
 その特徴は、激しい硬質のパーカッションを中心に(場合によってはそれのみで)できていることにあり、その特質を生かしてジャングルからクラウトロックまで、多種多様な音楽ジャンルを呑み込みつつある。ここでは、そのゴルジェについてメモ程度に書いておきたい。



 まず簡単にまとめてみよう。ゴルジェの発祥は、正確にはわからないがネパールの山岳地帯にあるクラブであるとされる。生み出したのはDJ Nangaなる人物で、峻厳な環境を反映した硬質なタムとパーカッションの連打だけでできたクラブミュージックを作り出した。ゴルジェの語源は峡谷などを意味する地理用語であるとされている。
 それが日本に上陸したのは、上記のように2012年前後であるとされる。持ち込んだのは現在hanaliとして活躍しているDJ・プロデューサーで、さらに専門のレーベルGORGE.INがネット上に出現、強烈なタムの連打によるトラックを量産し、ネット放送局DOMMUNEにも数回登場した。
 それとともにゴルジェは日本独自の展開を開始しており、活動領域も日本各地さらに海外とのコラボレーションまで広がっている。そのトラックは多様で、ゴルジェの音楽家はブーティストと呼ばれるが、各ブーティストごとに異なるスタイルを持つ一方で、ブーティストによるゴルジェミックス集はOne Pushと呼ばれ、それらは文字通りに開始と同時に休むことを知らず上昇し続ける音楽性で共通している。またその主な活動レーベルであるGORGE.INは、特異なコンピレーションでも知られており、万葉集をアイデアにした「Ten thousand leaves」や、昨年末には音頭を主題とした「Ondo Dimensions」を発表して、一躍、現在のトライバルミュージック再評価の最先端に立つことになった。
 また、日本産ゴルジェの主要なモチーフとしては、タムを強調した音楽性にくわえ、その発祥に由来すると思われるが、山岳および登山、さらに関連して岩石や自然環境への傾倒が横溢しており、岩盤や植生などをテーマにしたアルバムはそれ自体、ある種の異様さをまとっているように見える。



 さしあたり、こうした特徴を持つと思われるゴルジェだが、その衝撃はより多様に展開している。そのいくつかの点にふれておこう。
 まず一つは、とりわけ日本産ゴルジェの多様で貪欲な他ジャンルへの拡張である。特に、日本に上陸した2012年には、即座に同時期に活発化しはじめたジューク・フットワークのDJたちと共振し、すぐに「ゴルジューク」なる合体ジャンルを出現させた。中でもそのゴルジュークの祖としては熟村丈二なる人物が登場し、ゴルジューク用サンプルトラックを含め普及に励んでいる。またこれ以外にも、硬質なパーカッションの連打(によるクラブミュージック)という点はインダストリアル、ジャングル、トラップといったダンスミュージック各種とも親近性があり、それぞれのDJが自由にゴルジェに参入している。くわえて、そうしたゴルジェトラックにボイスを乗せる試みとして、ラップ(ゴルラップ)やボカロの導入も試みられており、むしろゴルジェはこうした新旧のダンス・クラブミュージックが混交する見本のような様相を帯びている。
 こうした性格は、おそらくゴルジェの、音楽性にくわえて、設定されている形式にもよっているだろう。実際、DJ Nangaが定義したゴルジェには要素が3点しかなく、1.タムを用いること 2.それをゴルジェと呼ぶこと 3.芸術ではないこと、とするのみの拘束しかないという。実際、この定義に従えば、タムを用いた音楽は、それをゴルジェと呼べばどれもゴルジェであり、芸術としては存在しないが音楽としては成立することになる。多様な他ジャンルを吸収する理由は、おそらく主にここにあると言っていいだろう。




 いや、もう少し詳細に踏み込もう。個人的にゴルジェが興味深いのは、いま上記したこの規定にある。つまりタムを用いてそれをゴルジェと呼べばゴルジェが成立する、という定義は、ごく通常の意味で捉える限り、他ジャンルの中にあるメタジャンルのような場所に位置づけられるからだ。
 つまり言い換えれば、ゴルジェというジャンルは、ジャンルでありながらも実際は形式でのみ成立している、さらに言い換えれば、中身のない音楽であると言ってよいかもしれない。極端に言えば、ネパールの山岳地帯にいた(とされる)DJ Nangaが存在しなくとも、タムを用いた音楽があれば、それはたちまちゴルジェになってしまうのだ。
このことは、日本におけるゴルジェ推進者によって、実際にそう認識されている。実際、彼らは上記の簡略な形式にしたがって古今東西の音楽の中から「ゴルジェ」を認識し発掘・アーカイヴィングする作業に着手しており、そこには一世風靡セピアからクセナキス、カンをはじめとするクラウトロックからドンキーコングのBGMまで、「ゴルジェ成立以前に存在していたゴルジェ」を膨大に渉猟している。ルーツ・ゴルジェ・アーカイブスとされるその試みは、今後もおそらく拡張していくだろう。
 これは、実は裏返せば、歴史的なアーカイブだけでなく、未来についても同様である。つまりいま現在うまれている新しい音楽ジャンルや、あるいは今後うまれてくる未知の音楽領域においても、ゴルジェはそれがゴルジェと認識されれば存在することになるだろう。事実、すでにふれたようにフットワークや日本語ラップといった最新のジャンルの中からもたちまちゴルジェは出現したのである。おそらくこれからも、そうした他ジャンル内でのゴルジェ発掘はあり得るだろうと思われる。
 繰り返そう。きわめて興味深い点の一つは、ゴルジェが、じつはその簡素で言語化された定義だけで存在している、つまり形式として存在している音楽であることだ。この形式にそえば、あらゆるジャンルの中に「ゴルジェ」が見出せる。ゴルジェとは1ジャンルだが、実はそれは、他のあらゆる音楽ジャンルの中に息づき生成してくる、空虚なメタジャンルというべきものである。




 だが、これだけではない。こうした、いわばメタジャンルとしての、形式として存在する性格にくわえて、一方でその内実からもう一つ興味深い点を挙げておきたい。
 それは端的に言えば、ノイズとの関連性にある。いやこれはきわめて主観的な評価だが、ゴルジェの(実際の)トラックが持っている音楽性には、いわゆるノイズ・ミュージックと近い要素が多くある。実際、そのトラックは膨大な情報量を持ち、大音量・高速・低域の強調・雑音を含んだ電子音の乱雑な使用といった、ある意味で攻撃的な印象を与える音楽性を持っている。それは現在のクラブミュージックにある程度は共通した要素だが、とりわけゴルジェのトラックではその峻厳さ過酷さをモチーフにしたことも手伝って、圧縮された攻撃性と祝祭感が入り混じった冷徹な高揚というべき性質を帯びているだろう。
 それらのトラックを聞いていると−とりわけミックス集であるOne pushを聞いていると−、おそらくここにはノイズミュージックが一度取り上げ、しかし部分的に摂取しながらも通り過ぎていった要素が多く見つけられるように思われる。それは、端的にはパーカッションの乱打であり、トライバルなパーカッションの打音のもたらすノイジーで攻撃的な、また無慈悲な非人間性の表現といったものである。実際、硬質に加工され高速に編集されたトライバルなパーカッショントラックから得られる印象はほぼノイズミュージックのもつ複雑さや多様さやうねりに匹敵しており、「あらゆる雑音はノイズである」といったある種の循環論法による理論武装なしで、屈託もなく複雑さと自由さを得た音楽様式があることに率直に言って驚く。それは、こう言ってよければ、ノイズミュージック以後の、しかしノイズだけを用いるわけではなく生み出されている、音楽外へと向かう音楽の一つの形なのだ。
 言いかえれば、そのほぼすべてのトラックで乱打される、極度に編集されたパーカッションは、ノイズミュージック以後にあって、電子音の閉域にこもることではないやり方で世界の雑音を汲み取っていくさいの、一つの、しかし当面は他に見つけることのできない、稀有な方法であるだろう。



そう、だからそのジャンルは、今もひそかに他ジャンルの中で己を生成しつづけており、そしてそのいたるところでは峻厳な山麓の向こうを目指して打ちつけられるタムの響きがこだましている。





関連リンク
http://gorge.in/

ルーツ・ゴルジェ・アーカイブス https://jp.pinterest.com/oiplabel/roots-gorge-archives/

ゴルジェ(Gorge)という現象、そしてそのカルト的熱狂 http://hase0831.hatenablog.jp/entry/20130404

ROCK MUSICK tumblr http://hanalirockmusic.tumblr.com/